戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

仁保嶋 にほじま

 中世、広島湾東岸沖に浮かんでいた仁保嶋の港町。安芸国の大河川である佐東(太田)川と瀬野川の河口部の沖に位置する。戦国期には、広島湾水上交通と瀬戸内海航路を抑える要衝として激しい攻防が繰り広げられた。

海賊衆の海上活動

 明応四年(1495)十月、安芸分郡守護・武田元信は白井光胤に対し「安藝国仁保嶋海上諸公事、同飯山後浦悉大河迄」等を安堵している。飯山や後浦、大河は仁保嶋の地名であり、白井氏は仁保嶋を海関として、周辺を航行する船から「海上諸公事」(通行料)を徴収していたと推定される。

 天文十年(1541)頃の九月、小早川弘平は乃美賢勝宛ての書状で、賢勝が「上乗」を用意したことを賞する一方、「仁保嶋邊」での「上乗」は認めない旨を「能嶋」から度々言われていることを伝えている。

 意味する所の詳細は不明だが、当時竹原小早川氏と能島村上氏は緊張関係にあった。仁保島の白井房胤などは、大内方警固衆の一翼として村上氏らの拠点である芸予諸島に出兵を繰り返していた。海上勢力の対立が仁保島周辺の海上交通にも波及していたのかもしれない。

安芸・伊予間の海上交通

 天文十二年(1543)、厳島神社社家衆は大内氏に対し、白井氏が伊予衆に「違乱」を行っているため、伊予からの船が厳島に入港しなくなったと訴え出ている。これに対して九月、白井房胤や白井之胤らは連署厳島社家・野坂房胤に反論。「警固米」の徴収は以前からのことであり、それによって参詣の船に支障が出る事は考えられないと主張した。山口(大内氏の本拠)に参上することも辞さないと表明している。

 仁保島近海が、伊予から厳島に向かう船の航路であったことがうかがえる。これらの船にとって、白井氏に徴収される「警固米」は大きな負担になっていたのかもしれない。

仁保嶋衆

 仁保嶋住民の水運との関わりを示すものとして、「大鳥居造立入目勘文写」(大願寺文書)がある。永禄四年(1561)、厳島社大鳥居造立に際して仁保嶋では大鳥居の脇柱二本を取出す為に「仁保嶋衆」が動員された。

 同時に廿日市桜尾城主・桂元澄の船1艘とともに、仁保島からも1艘が出されている。元澄は能美島大原からの身柱輸送の際にも6端帆の船を出しており、仁保島船もこれと同程度(小~中規模)の船だったのだろうと思われる。

関連人物

参考文献

  • 鈴木敦子 「地域経済圏の実態と商・職人活動」 ( 『日本中世社会の流通構造』 校倉書房 2000 )
  • 安芸府中町史 資料編』 1977
  • 広島県史 古代中世資料編 Ⅴ』 1980
  • 広島県史 古代中世資料編 Ⅱ』 1976

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仁保橋から眺めた黄金山(仁保嶋)。

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竃神社前の仁保の町並み。

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邇保姫神社

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邇保姫神社から眺めた黄金山(仁保嶋城跡)。

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観音寺の本堂。16世紀末の仁保嶋城主・三浦元忠の菩提寺

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三浦元忠の墓塔と伝わる宝篋印塔。観音寺境内にある。

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三浦元忠の宝篋印塔付近にある五輪塔や宝篋印塔の残欠。

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観音寺から眺めた仁保や本浦町。