戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

白井 房胤 しらい ふさたね

 安芸白井氏当主。仮名は弥四郎。官途名は縫殿助。膳胤の子。妻は熊谷元直の娘(「大日本古文書家わけ十四」熊谷家系図)。周防の戦国大名大内氏に属し、その警固衆として活躍した。

家督継承

  天文七年(1538)十二月、父膳胤から房胤への相続が、大内義隆によって安堵された(「岩瀬文庫所蔵文書白井文書」)。この頃、房胤が白井氏の家督を継承したものと思われる。

対武田氏の最前線

  天文八年(1539)冬、小方(大竹市小方)から海路で開田(安芸郡海田町)に向かっていた大内氏部将・杉隆宣の船団を安芸武田氏の佐東河内警固衆が襲撃。房胤は自ら乗船して隆宣の救援に向かい、敵船を切り取る活躍をした(「岩瀬文庫所蔵文書白井文書」)。

  翌天文九年(1540)も合戦が続く。二月十四日、二十二日、佐東川口で武田方警固衆と合戦し、房胤の軍勢は「賊船一艘切執」り、9人を討ち取った。五月五日、佐東箱島(広島市中区白島)でも合戦し、負傷者を出している(「岩瀬文庫所蔵文書白井文書」)。

 八月十三日、大内氏部将・小原隆名に従って伊予中島(忽那島)を攻撃(「成簣堂文庫所蔵文書白井文書」)。これは大内氏の、伊予河野氏に対する作戦の一つと思われる。

  明けて天文十年(1541)五月、安芸白井氏の旧主、安芸武田氏がついに滅亡の時を迎える。その最期となる佐東金山城、伴城の戦いに房胤も参戦。白井勢は郎党に死傷者を出しながらも、功績を挙げて大内義隆の感状を得た(「岩瀬文庫所蔵文書白井文書」)。

芸予諸島を転戦

 武田氏との合戦から間もない同年六月、房胤ら白井勢は再び小原隆名に従って芸予諸島を転戦。六月十八日から七月二十六日にかけて大三島、甘崎城、岡村島、能島、因島といった、大内氏と敵対する海賊衆•三島村上氏や大祝氏の拠点への攻撃に参加した。特に六月二十四日の甘崎城での合戦は、房胤自身も左足に負傷している(「岩瀬文庫所蔵文書白井文書」)。

大内氏の出雲遠征

 天文十一年(1542)、大内氏は遂に尼子氏の本拠である出雲へ侵攻する。九月五日、出雲中海に浮かぶ大根島での合戦で、房胤の手勢は敵の首級を挙げて捕虜も得る活躍をしている(「岩瀬文庫所蔵文書白井文書」)。房胤が自前の警固衆を率いていたとすると、安芸国から関門海峡を抜け、日本海を進んで出雲に着陣していたことになる。しかし出雲遠征自体は惨敗。房胤もまた、這々の体で安芸に帰国したのかもしれない。

 天文十二年(1543)六月六日、大内義隆豊前国築城郡弘末名10石と周防国玖珂郡新庄20石を房胤に充行っている(「岩瀬文庫所蔵文書白井文書」)。これらはかつて房胤の祖父光胤が、大内氏から与えられた所領に似ている。あるいは房胤の功労に報いて、一度は召しあげた光胤の旧領をもどしたのだろうか。

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厳島参詣船への違乱疑惑

  この天文十二年とみられる年の五月、参詣する伊予衆の船が「諸浦警固衆」の「違乱」行為に遭っているとして厳島神社大内氏に訴え出た。

 九月、厳島社家の野坂房顕に対して、房胤や之胤らが連署で抗議しているので、被告は安芸白井氏であったことがうかがえる(「厳島野坂文書」)。この野坂房顕と白井房胤らの応酬を通じて、海賊衆としての安芸白井氏の活動の一端を垣間見ることができる。

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大内警固衆として活躍

  天文十年以降も、大内氏による芸予諸島の反大内勢力への攻撃は続いていた。『予陽河野家譜』によると天文十三年(1544)四月、房胤が再び伊予中島を攻撃。河野方は村上や今岡、岩城らの警固衆諸氏が防戦にあたった。天文十五年(1546)二月は大内氏部将・冷泉隆豊とともに伊予平智島を、翌天文十六年(1547)五月にも隆豊とともに伊予中途島(能島村上氏の拠点)を攻めている(「成簣堂文庫所蔵文書白井文書」)。

 ただ天文十六年の芸予諸島情勢は、能島(能島村上氏本拠地)に大内氏に属する厳島神主・杉景教が発行するなど大内氏優位に推移していた。天文十七年(1548)以降、大内氏による合戦は史料上みられなくなる。

 そして房胤もまた史料上からみえなくなり、かわって白井賢胤が現れる。この両者を同一人物とする説もある。

参考文献

  • 河村昭一 『安芸武田氏(中世武士選書)』 戎光祥出版 2010
  • 宇田川武久 『戦国水軍の興亡』 平凡社 2002
  • 安芸府中町史 資料編』 1977
  • 広島県史 古代中世資料編 Ⅴ』 1980

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仁保嶋城二の丸跡から厳島のある西の方を望む。房胤ら仁保白井氏はこの海域を支配。平時は通行船から警固米を徴収し、戦時は武田警固衆とも戦った。

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対岸の海田(開田)の日浦山城から見た仁保島。天文八年、開田へ渡海中の大内勢が武田警固衆の襲撃を受け、房胤が救援に向かった。

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大三島東岸沖に浮かぶ甘崎城(古城島)。房胤はこの城を攻撃中に負傷した。