安芸白井氏の一族。備後守。天文十二年(1543)とみられる年の九月十六日、厳島社家・野坂房顕宛の書状に房胤、隆胤とともに連署している(「厳島野坂文書」)。
厳島社家の訴え
書状の内容は、厳島への参詣船からの「警固米」徴収をめぐる問題についてだった。この問題の表面化は、同年五月に厳島社家が「警固衆」(海賊衆)の「違乱」を大内氏に訴えたことに始まる。厳島神社の法会に参詣しようとする伊予衆に対して、「諸浦警固衆」が違乱行為を働き、その為に近年は厳島への「与州船」の入港が無くなってたいへん困っている、というものだった。
大内氏は厳島神社の訴えを認め、警固衆に違乱停止を命じたことを回答している(「厳島野坂文書」)。
白井氏の反論
大内氏から違乱停止を命じられた警固衆こそ、白井氏だった。之胤ら白井氏は、先程の天文十二年(1543)九月十六日付の連署書状で厳島神社に反論を試みる。
之胤らは「警固米事有様義候之条、依其社参之舟相滞儀有間敷候」と述べ、警固米徴収は以前から行われていることとして、その為に社参の船に支障が生じることはないと主張した。さらに近年は「宮嶋表」での警固も行っていないと述べており、(この書状に対する)返状を持って山口(大内氏本拠)に参上するつもりであることを宣言している。
白井氏の権益
之胤らが主張するように、白井氏の警固米徴収の歴史は古い。明応八年(1495)十月には白井光胤が父の親胤の持っていた「仁保嶋海上諸公事」を安堵されている(「岩瀬文庫所蔵文書白井文書」)。
伊予から北上し、音戸の瀬戸を抜けて厳島を目指す船にとって、仁保島周辺は必ず通過する航路にあたる。そこで白井氏に徴収される警固米(公事)は大きな負担になっていたのかもしれない。
一方で白井氏にとっても譲ることができない重要な権益であったことが、之胤らの強硬な態度からうかがうことができる。