広範な信仰を集める安芸一宮、厳島神社の門前町。各地から参詣者や商人が来航し、瀬戸内海の要港として繁栄した。
厳島門前町の住人たち
戦国期の厳島門前町には瓦職人や大工、畳屋、酒屋など厳島社の造営・祭礼や消費を担う職人、商人らが居住していた。彼らの活動は厳島神社関連の文書に散見される。
金融業に関わる商人もいた。元亀四年(1573)十月の社家・野坂房顕宛ての算用状の作成者として「くらや新右衛門尉」がみえる。土倉(金融業)に関わり、神社の財政を支えていたことがうかがえる。
厳島に集う人々
厳島の町では、法会の際には各地から商人が来航して活発な商売が行われた。文安四年(1447)の『臥雲日件録』によれば、厳島神社の法会参詣に舟が9万、10万と集まり、喧騒を窮める雑踏であったという。
また「安芸厳島神社廻廊棟札写」*1には、瀬戸内の尾道や瀬戸田、赤間関のほかに石見の河上市や石見銀山、筑前の博多、さらには「ほうらいふさん浦」(高麗釜山浦か)の住人らが戦国期の廻廊寄進者として名を連ねている。厳島信仰に関わり、厳島に来集する人々はかなりの広範囲に及んでいた。
イエズス会宣教師フランシスコ・カブラルも1574年(天正二年)5月31日付の書簡の中で、宮島(厳島)について、「全体が神社に奉献されている。そこでは今なお異教とその祭典が、日本の他の土地に見られないほど栄えており、島の全住民はこの神を信仰している。」と述べている。
瀬戸内海航路の要港
明の嘉靖三十五年(1556)に来日した鄭瞬功が著した『日本一鑑』に付載された地図には、瀬戸内海と思われる所に「宮島」(厳島)および「釜雁」(蒲刈)、「志波久」(塩飽)の三つの島が描かれている。地図は鄭瞬功が日本で得た知識をもとに作成されたとみられるから、宮島(厳島)が当時の日本でよく知られた瀬戸内海の港町であったことがうかがえる。
天文十九年(1550)、京都東福寺の梅霖守龍は、京都と周防国を往復する。その際、往路では堺から塩飽の源三の大船に乗って宮島(厳島)まで行き、そこから小船に乗り換えて周防に向かっている。そして復路もまた周防から小船で厳島に着き、そこから室津の五郎大夫の大船に乗り換えて堺に帰った(『梅霖守龍周防下向日記』)。厳島は、堺と周防方面を結ぶ瀬戸内海航路の終着点だった。
海賊の関所
先述の塩飽や室津の船の中には、日向や薩摩から唐荷を仕入れる京や堺の商人及び彼らに雇われた船もあった。それらが厳島を、瀬戸内海における中継港として利用していた。一方で、京や堺の商人は、海賊衆・能島村上氏によって日向や薩摩からの唐荷に対して「唐荷駄別役銭」を厳島で徴収されていた。厳島は海賊衆の海関としての側面も持っていたといえる。
商品の集まる場所
厳島では、唐荷をはじめとした様々な商品が調達可能だった。大内氏は厳島の社家に依頼して、唐錦や練繰糸の調達を試みている。また厳島大願寺は、毛利氏への贈り物として緞子や越後布を贈っている。法会の際には、薬座も出されている。