安芸府中城城主。安芸武田氏の被官。大永年間、府中城に籠城して大内軍の北上を阻止し、武田方陣営の防衛成功に大きく貢献した。
府中城の守将
白井備中守の名は、大永七年(1527)五月十三日付の「仁保興奉合戦注文」(三浦家文書97)に、「芸州府要害 白井備中守楯籠云々」とみえる。大永七年五月時点で「芸州府要害」すなわち府中城に、白井備中守が籠城していた。
大内氏の安芸武田氏への本格攻勢は、大永二年(1522)より始まる。三月、白井光胤らが拠る仁保島に大内方の警固衆が襲来。二十七日には、府中南方の堀越が大内方の能美氏によって放火された。
ただその後、大永三年(1523)四月に佐西郡で友田興藤が挙兵し、さらに出雲の尼子経久が安芸に侵入した。これにより、大内方による武田方への攻撃は一時中断された。
府中城の降伏と復帰
大永五年(1525)までに、大内方は興藤を降し、毛利氏ら安芸の尼子方国人を帰順させた。翌大永六年から武田氏への攻撃を再開。豊後大友氏の援軍1万を加えた大軍で、府中城南方の鹿籠に着陣した。この大軍を見た備中守ら城方は、武田氏から派遣されていたとみられる内藤玄蕃助、渋屋某の両人の切腹を条件に降伏した(「房顕覚書」)。しかし、この後に大友軍の大半が国元の紛争により撤退したため、府中城は武田方に復帰した。
翌大永七年(1527)三月、態勢を立て直した大内軍は、残留した大友軍とともに仁保島などを攻撃。これにより四月、白井膳胤ら仁保島の勢力が大内方に寝返った。
府中城籠城戦
五月五日、大内軍による府中城攻撃が開始され(「閥閲録」102-2)、翌六日には「府中城西籠屋」を落とされた(山口県文書館所蔵文書「譜録」眞鍋長兵衛安休)。
それでも府中城は抵抗を続けていた。先述の大永七年五月十三日付「仁保興奉合戦注文」によれば、府中城の後詰に来た武田方とこれを迎撃した大内方が松笠山で激突している。その後も六月二十一日に攻防戦が確認される。
筑前の有力国人・麻生氏の竪系図によれば、麻生興春は「芸州府中」で義興の為に討死したと注記されている。大内方の被害も大きかったことがうかがえる。
七月に入ると備後方面での尼子軍の動きが活発になった為、大内軍は備後方面に転進し府中城への攻撃はいったん止んだ。
大内義興の死
明けて享禄元年(1528)七月、陶興房や野田興方ら大内氏部将が鹿籠に在陣しているので(「房顕覚書」)、この頃には府中城への攻撃が再開されていたとみられる。しかし同月、大内氏の当主、義興が重篤に陥り、十二月に山口で没した。
義興の跡は義隆が継いだが、九州方面での情勢悪化に対処するため安芸での軍事行動はしばらく中断することとなった。この結果、備中守は府中城を守りきることに成功した。
一方で、この間の戦いで仁保島の白井氏が大内方に転向し、備中守や武田方陣営を取り巻く環境は一段と厳しさを増すことになった。
その後の白井備中守
白井備中守や府中城がその後どうなったのか、江戸期の史料からうかがうことができる。正徳二年(1712)の『府中村寺社堂古跡帖』は出張城(府中城)について、城主を「白井掃部子息備中二代」とし、大内氏に城を明け渡して千代城を貰ったとしている。
また文政八年(1825)に完成した『芸藩通志』によれば、出張城(府中城)は天文年間に大内氏に攻められて落城したという。また千代城については、出張城(府中城)落城後、白井備中の子の万五郎が大内氏に降参したため、この城を守らせていたが、後に毛利氏に滅ぼされたと伝えている。
これら江戸期の史料から推測すると、府中城は天文十年(1541)の安芸武田氏滅亡に前後して大内氏に攻略され、備中守あるいはその子は、降伏して千代城に移った。そして天文二十三年(1554)、毛利氏が大内氏に反旗を翻した際、大内方として千代城で抗戦し、滅ぼされたものと考えられる。