安芸武田氏の当主。佐東金山城主。元繁の子。永正十四年(1517)十月、父の武田元繁が敗死。これにより光和は武田氏の家督を継いだ。
若狭武田氏による後見
若くして家督を継いだ光和は当初、惣領家・若狭武田氏の後見を受けていた節がある。元繁敗死の3・4年後、若狭武田元光は仁保の白井越中守*1に書状を出して備後での戦功を賞している。これは「金山」(安芸武田氏)からの注進を受けたものであった。また「彦三郎」に「一味」せよと言っているが、この「彦三郎」は光和を指すとみられる。
大永二年の防衛戦
大永二年(1522)三月、大内氏は防長はもとより豊前・筑前・石見・安芸の全領国から軍勢を動員し、佐東郡に侵攻した(『棚守房顕覚書』)。同軍は新庄小幡(広島市西区新庄町)、大塚(広島市安佐南区沼田町大塚)まで攻め込んだ。しかし武田方の抵抗に阻まれ、八月には開陣して撤兵した。
厳島神領衆に加担
翌大永三年(1523)四月、光和は他の国衆とともに友田興藤ら厳島神領衆の蜂起を支援。興藤は、大内方の大藤加賀守が守る桜尾城を奪取して厳島神主を自称した。また石道本城の大内方城番・杉甲斐守は廿日市後小路にて「佐東衆」(武田勢)に討たれている。
これを好機とみた出雲の尼子経久も南下を開始。毛利氏を始めとする大内方の有力国人を寝返らせ、鏡山城など安芸の大内方諸城を攻略した。
大内氏の反撃
大永四年(1524)五月、光和と友田興藤は、大内方に攻められた大野要害への後詰のため大野女滝に出陣。しかし要害の守将・大野弾正少弼が大内方に寝返ったため、武田・友田の軍勢は敗北し、追撃を受けて7、80人が討死した。友田興藤はその後も桜尾城に拠って大内軍の猛攻をしのいでいたが、十月、ついに降伏した。
翌大永五年(1525)三月、安芸国人の盟主・毛利氏が大内方に寝返ると、大内氏の安芸国人への攻撃、調略が本格化する。八月、光和は大内方に帰順した天野興定を攻めている。
大永六年(1526)、武田方の府中城が大内軍と豊後大友氏の軍勢の攻囲を受けて降伏。大永七年(1527)三月、武田方の阿曽沼氏が降伏。さらに四月、仁保島の白井膳胤が大内方に寝返った。
強力な警固衆を擁していた仁保白井氏の大内方への転向は、武田氏の広島湾頭支配を揺るがす大きな痛手となる。
府中城の攻防
五月、大内軍が武田方に復帰した府中城への攻撃を開始したが、白井備中守ら城兵がこれをよく防いだ。光和も後詰の軍勢を派遣したが、大内軍の迎撃にあって退けられた。
七月、備後での尼子方の活動が活発になったため、大内軍は府中城攻めを中断して備北へと軍を転じた。十三日、玖村要害(広島市安佐北区高陽町玖村)で武田軍と大友軍が戦闘。光和が大内軍の北上を阻止・牽制しようとしたとみられる。
翌享禄元年(1528)七月、大内氏当主の大内義興が危篤となる。大内軍は府中城への攻撃を再開させていたが、これを受けて撤兵し帰国。この年の十二月、義興は周防山口で病死した。
熊谷氏の離反
義興の跡は子の義隆が継ぎ、大内氏の安芸攻略はしばらく中断した。しかし、この間、毛利元就の調略により、武田方の有力国人であった熊谷信直が大内方に寝返った。
軍記物の『陰徳太平記』によれば、天文二年(1533)八月、信直の寝返りに怒った光和が熊谷氏の本拠高松城を攻めているので、信直の寝返りはこの頃とみられる。
劣勢の中での病没
天文八年(1539)、大内方による武田氏への本格的攻撃がついに再開。翌天文九年五月までに江波島(広島市中区江波二本松)や佐東川口、戸坂(広島市東区)箱島(広島市中区白島)で合戦があり、広島湾頭を舞台に激しい戦闘が繰り広げられた。大内方には大永六年に寝返った仁保白井氏が加わって活躍しており、武田勢は苦戦を強いられたようである。
『棚守房顕覚書』には、「武田光和ハ去年(天文九年)之六月ニ病死タリ」とみえる。 光和は、武田氏存亡のかかった局面で若くして没した。跡には惣領家・若狭武田氏から当主・武田元光の子の信実が迎えられた。
参考文献
- 河村昭一 『安芸武田氏(中世武士選書)』 戎光祥出版 2010