安芸武田氏最後の当主。官途名は刑部少輔、後に刑部大輔。若狭武田氏の当主・武田元光の子。信豊の弟。安芸武田氏滅亡後は将軍足利義昭に仕えた。
若狭から安芸に入る
天文九年(1540)六月、安芸武田氏の当主・武田光和が、嫡子がないまま病死した。この時の信実は、栖雲寺に入って僧になっていた。
若狭小浜の羽賀寺の『羽賀寺年中行事』には、「芸州ノ武田殿遠行(死去)」により、「出雲」から使僧が来て、信実の安芸入国を要請したことが記されている。信実の安芸武田氏継承は、出雲尼子氏の要請によるものであった。この頃の武田氏が、尼子氏の政治的支配下に組み込まれていたことがうかがえる。
大内氏との戦い
信実が跡を継いだ当時、武田氏の本拠・佐東金山城には大内氏の軍勢が迫っていた。『棚守房顕日々記』によると、天文九年(1540)九月一日、陶隆房ら大内氏部将は厳島で「佐東伴方計略」を廻らしたという。同十三日、武田氏一族の伴氏が大内方に寝返った。
一方で、出雲からは尼子詮久が大軍を率いて大内方の毛利氏本拠・吉田郡山城を目指して出陣。九月四日、風越山に着陣した。これにより、大内軍の武田氏攻撃は後回しとなり、陶隆房率いる1万が郡山城に向かった。十一月、信実は尼子軍に呼応して「般若谷」まで兵を進めたが、国司元相らの毛利軍に敗北した。
城を捨て出雲に逃れる
天文十年(1541)正月十三日、宮崎長尾(安芸高田市吉田町相合)の合戦で、尼子軍は大内・毛利両軍に大敗。出雲に潰走した。 『陰徳太平記』によると、この尼子軍の敗走を聞いた信実は、その日の夜、大雪に紛れて金山城を忍び出て、出雲に逃れたという。
信実逃亡後の佐東金山城には、なお伴、香川、品川、無藤(武藤)、内藤、逸見らの武田家臣が籠城していた(『棚守房顕覚書』)。天文十年、安芸武田氏は当主不在の中で、最期の時を迎えることとなった。
足利義昭の御供衆
信実は、その後若狭に戻ったらしいが、足利義昭の将軍就任にともない、上洛して仕えた。「永禄六年諸役人附」に、「武田刑部大輔信実」が御供衆としてみえる。『言継卿記』永禄十二年(1569)三月一日条に「武田刑部少輔」がみえるので、その後に刑部大輔に変わったのだろう。
この頃、奉公衆である若狭の本郷信富の身上について、信実が尽力している。一方で信富からは、故実の書写や伝授を受けている。また若狭武田氏の一族や家臣、義昭側近らとの交流も確認できる(「両家聞書」)。
天正元年(1573)、義昭が織田信長と対立して没落すると、信実は義昭と行動をともにした。天正五年(1577)、安芸国人・熊谷信直が、信実を通じて義昭に上洛への協力を約束している。安芸武田氏の人脈を活かしたものとみられる。
その後、信実は史料にみえない。間もなく死去したのかもしれない。