戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

杉 甲斐守 すぎ かいのかみ

 大内家臣。周防国玖珂郡日積村に知行を得た杉氏の一族か。永正・大永年間に安芸国石道本城に入り、厳島神領支配の一角を担った。天文十七年(1548)には、備後国神辺村尾城攻めの検使として弘中隆兼、小原隆言とともにみえる。

厳島神領支配と安芸武田氏との戦い

 永正十五年(1518)八月、大内義興が長年の畿内滞在から帰国。その後、安芸国佐西郡厳島神領衆を率いる厳島神主家の後継争いに介入し、桜尾城に嶋田越中守、己斐城に内藤孫六、そして石道本城*1に杉甲斐守をそれぞれ城番として送り込んで厳島神領の直接支配に乗り出した(『房顕覚書』)。

 なお石道本城は大内氏に従属する安芸国人・小幡興行の城であり、大内氏神領支配の拠点とするため、杉甲斐守を入れたものと考えられる。また、大内氏は大永二年(1522)に安芸武田氏を攻めているので、その前線基地とする目的もあったと思われる。

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 しかし大永三年(1523)四月十一日、前神主・藤原興親の従兄弟にあたる友田興藤厳島神主を自称し、廿日市桜尾城を奪取。石道本城に居た杉甲斐守は、廿日市の後小路で「佐東衆」(安芸武田氏の軍勢か)によって討たれた(『房顕覚書』)。この時、友田興藤の被官である幡見十郎左衛門尉も討死したというから、杉甲斐守と友田・武田の両軍の間で戦闘があったのかもしれない。

 一方、石道本城は依然として小幡興行が守っていたものの、この城も安芸武田氏に攻められて開城。十一月一日、興行は三宅円明寺(現在の広島市佐伯区三宅)にて自害した。

備後国神辺村尾城攻め

 天文十七年(1548)六月、大内氏重臣・弘中隆兼を総大将として、毛利隆元吉川元春安芸国衆を動員した大内勢が、備後安那郡の「神辺表」や「神辺固屋口」において、同村尾城主・山名理興勢と戦った。

 この時、弘中隆兼、小原隆言と並ぶ大内氏の検使の一人として杉甲斐守の名が見える(「萩藩閥閲録」巻104)。大永三年に討死した杉甲斐守の子息にあたる人物かもしれない。

 特に十八日と二十日に激しい合戦があり、吉川元春は「神辺固屋口」で負傷した33名のリスト(手負注文)を甲斐守に提出。甲斐守から手負注文を披露された大内義隆は、同年十二月十日に吉川元春へ感状を発給し、「六月十八日、同廿日、於村尾城下合戦之時、当手輩手負注文一見候了」と述べている(「吉川家文書」)。

周防国玖珂郡日積村の杉屋敷

 江戸期の享保十一年(1726)頃に編纂された『享保増補村記』および享和二年(1802)編纂の『玖珂郡志』によると、玖珂郡日積村の松ケ段川角に「杉屋敷」という所があり、ここは杉甲斐守の屋敷であったとしている。当時は東門、西ノ門、涼ノ殿、矢橋ノ殿などという所も残っていた。

 現在、杉氏館跡とよばれるこの史跡は、琴石山から伸びる丘陵地の突出部に位置しており、東西北の三方を急勾配な崖で囲まれている。館の推定規模は、東西南北とも約80m。

 2002年の発掘調査では、土塁や土留め石積み、排水溝、野外のかまど、風呂の基礎部の石組み、堀建て柱の建物跡、館が3段に整地された跡、堀建て柱の北門跡、北側の土塁とその外側の築地の柱穴列、土塁を貫通する暗渠排水溝などの遺構が確認された。また土師器の皿や杯、備前系の陶器すり鉢、中国明朝の竜泉窯系青磁碗、白磁の染め付け皿・碗・杯、瓦質土器の土鍋、鉄製角釘などが出土している。

 中世の日積村は、北方と南方に分かれており、杉氏館跡は南方にある。応永七年(1400)九月、大内氏は杉備中守重明の子の杉三郎重茂を日積郷南方の代官職に補任。応永二十年(1413)八月には、日積村内の杉民部丞重茂の跡地をその子杉熊王丸頼明が相続している(「永田秘録」)。

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参考文献

柳井市日積の杉氏館跡。琴石山から伸びる舌状の丘陵地の突出部に築かれている

*1:現在の広島市佐伯区五日市町石内にあった城塞。有井城に比定される。