戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

クラクフ Kraków

 ポーランド南部、小ポーランド地方*1の都市。ヴィスワ川上流に位置する。14世紀から17世紀初頭までポーランド王国の首都ないし中心都市であり、通商ルートの要衝にあって遠隔地を結ぶ国際貿易で栄えた。

ポーランド王国成立以前

 ピアスト朝以前の時代、ヴァヴェルの丘の麓に、後にオコウと呼ばれた柵に囲まれた町が存在したことが確認されている。このエリアの地下からは、4212本もの鉄の延べ棒が詰まった大きな木の箱が見つかっており、これは9世紀のヴィシラン人の時代のものであるという。鉄の延べ棒は紐を通して束ね、高額の支払い単位としたと考えられている。クラクフは9世紀半ばには既に、生産や商業の拠点であったとみられる。

 10世紀、クラクフの名前が初めて記録に見える。当時、イベリア半島コルドバのカリフに仕えていたユダヤ人商人で旅行家のイブラハム・イブン・ヤクブが残した中央ヨーロッパ旅行の報告に、"Karako"という言葉があり、言語学者や歴史家によってそれがクラクフと確認されている。

 この報告によれば、クラクフチェコ公ボレスワフ1世の支配下にあり、ロシアやハンガリー方面とプラハを結ぶ大通商路の重要な中継都市であった。クラクフからは、西に向けて毛皮、奴隷、錫が輸出されていたという。

ポーランド王国の首都

 1320年(元応二年)、ヴワディスワフ・ウォキェテクはポーランド王としてクラクフで戴冠し、12世紀半ば以降、分裂状態にあったポーランド国家は再統一された。クラクフはピアスト朝とヤギェウォ朝の正式な首都となり、それは17世紀初頭のズィグムント3世の時代まで続くことになる。

 1335年(建武二年)、カジミェシュ3世は、クラクフユダヤ人居住のカジミェシェ地区とシナゴーグユダヤ教の会堂)を建設。この頃、13世紀にモンゴル軍に破壊された聖マリア教会も再建されている。1340年(暦応三年)には、クラクフの人口は1万2000人に達していた。

 1364年(貞治三年)、同じくカジミェシュ3世によって、ポーランド最古の大学であるヤギェウォ大学(クラクフ大学)が設立される。同大学からは15世紀末のミコワイ・コペルニク(ニコラウス・コペルニクス)をはじめ、多くの偉大な知識人が生まれており、数学や天文学を中心とした学問の府として、そして学術書の出版の中心地としてのクラクフの地位を高めた。

14世紀クラクフの通商ルート

 この頃のクラクフは、中継貿易都市として栄えた。東西方向では、ロシアやキエフ(キーウ)と、シロンスク(シレジア)*2プラハおよびドイツ諸都市を中継。そして南北では、ウィーン、ハンガリーバルト海沿岸を結ぶルート上に位置する交通の要衝にあった。この十字の交易路により、西からは毛織物、北からはニシンハンガリーからは銅、黒海沿岸からは香辛料、ロシアからは毛皮がもたらされた。

 クラクフから北に向かう道はトルニへ延び、ヴィスワ川の水路を経てバルト海港湾都市グダニスクダンツィヒ)に至る。このルートは、ポーランドを海路で西ヨーロッパ、特に毛織物商業の中心地であるフランドルと結びつけた。既に14世紀には、フランドルの仲介で、アヴィニョン教皇との貨幣のやり取り(教皇献金)を行うほどの強い関係性を持っていた。1390年(明徳元年)から通商路の北部は、より西寄りに直線的となり、カリシ、ポズナニなどを経由する「新フランドル街道」に変わった。

 東西のルートに関しては、クラクフが通商で最も強い結びつきを持っていたのは西方のシロンスク(シレジア)の中心都市・ヴロツワフだった。クラクフからシロンスクには主に塩が輸出され、毛織物とシフィドニツァのビールが輸入された。

 クラクフから東に向かう通商路はリヴィウ(ルブフ)方面に伸び、そこから一つはキエフを経てロシアへ、もう一つはタタールの道を通ってクリミア半島のカッファに達していた。カッファは、北イタリアのジェノヴァの植民都市であり、黒海北岸には他にもジェノヴァおよびヴェネツィアの植民都市が点在していた。

 クラクフは、黒海沿岸の北イタリア商人との取引を通じて、地中海、黒海ルートでの中東やアジアの物産、特に香辛料のヨーロッパへの流入口の一つとなっていた。逆に、ヨーロッパの物産をアジアへと流通させる仲介者の役割も果たしていた。

ヴロツワフとの関係

 クラクフとシロンスク(シレジア)のヴロツワフとは、特別密接な関係を長く続いた。そのためクラクフの公共施設や都市計画には、ヴロツワフとの類似をみることができる。

 クラクフの中央広場の織物会館は、ヴロツワフを中心とするシロンスクとの主要貿易品である毛織物取引の為であった。クラクフ神聖ローマ帝国の都市法であるマクデブルク法を受け入れたのも、同法に依拠して町の統治を行っていたシロンスク人とのつながりによるという。

 クラクフにはヨーロッパ各地や中東から多くの外国人がやって来ていた。とくに多数のシロンスク人(ポーランド人とドイツ人)が、商業だけでなく学問のためにも来住。15世紀初めには、クラクフの大学等で学ぶ貧しいシロンスク学生のための寄宿舎さえ現れた。

15・16世紀の国際商業の変化

 15世紀半ば、ポーランドでは西ヨーロッパへの穀物輸出が重要性を増し始める。穀物輸送のために、ヴィスワ川を使う交易が中心となり、ルブリンやワルシャワポズナニが重要な役割を果たすようになる。また西ヨーロッパへの穀物輸出港としてグダニスクダンツィヒ)が突出した地位を獲得する。この為15世紀末には、クラクフポーランドの商業中心地としての地位を失ってしまう。

 同じ頃、オスマン朝バルカン半島に支配を広げると、黒海の港町と通商ルートも圧迫を受け、胡椒や絹織物という高価な商品の取引は失われていった。さらにポルトガルやスペインが新航路を開拓したため、東方貿易の主役であった香辛料は大西洋ルートでヨーロッパに持ち込まれるようになり、クラクフには今までと逆の方向、グダニスクヴロツワフ経由で運ばれることになった。

近隣外国諸都市との貿易

 一方で、シロンスクやボヘミア、北部ハンガリートランシルヴァニアルーマニア)など、比較的近い外国都市との関係は維持ないし強化された。

 クラクフの仲立ちで鉱物のような原料品やワインのような加工品と、より高価な西ヨーロッパの繊維製品、割安の国内繊維製品、金属手工品とが取引された。また近隣のドイツの諸都市からは手工業品が、イタリアからは南欧の果物と香辛料が、ハンガリーからはワインが、トルコからはアルメニア商人の仲介で東方物産が輸入された。

 シロンスクとの交易も活発であった。同地域はクラクフ近郊で産出する塩および小ポーランドモルドヴァから運ばれてくる肉牛の最大の市場であったし、クラクフ商人はそのほかに馬、毛皮、蝋、羊毛をシロンスクで販売し、手工業品やシロンスク産もしくは西ヨーロッパ産の毛織物、亜麻布、ビール、金属製品および小間物(雑多な商品群の総称)を輸入した。

 15世紀のフス戦争後は、プラハとの交易も、特にユダヤ人商人の手によって活発化した。また、シロンスク、チェコ経由でクラクフ商人はドイツ諸都市、特にニュルンベルクライプツィヒ、ハレ、ハンブルク等にも進出し、牛、毛皮と小間物の取引を行った。

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オスマン朝のヨーロッパ進出の影響

 オスマン朝の勢力圏外でる北部ハンガリーとの交易も活発であった。しかし、従来の交易の中で重要であった鉱産物、特に銅の輸入に関して、アウグスブルクの商人などが直接ドイツに輸入を始めたため、クラクフの取引は減少した。代わりに、クラクフにはワインが輸入され、クラクフから毛織物やニシン、香辛料が輸出された。

 一方でハンガリーの南部はオスマン朝勢力圏となり、ハプスブルク家の領域であるオーストリアや北部ハンガリーとの交易が困難になっていた。このため、オスマン朝領域からもたらされる東方産物は、ドナウ川流域ではなく、モラヴィアチェコ東部)を通ってリヴィウ(ルヴフ)、クラクフ経由でハプスブルク領に運ばれるようになった。

 この中で、モラヴィアの毛織物をハプルブルク領北部ハンガリーオスマン朝領に販売する役割を、クラクフ商人が担うことになった。クラクフ商人は、スロヴァキア地方のレヴォチャの町を窓口にして、シロンスクとモラヴィアから買い入れた大量の毛織物や、イタリアからクラクフ経由でもたらされる絹織物を、スロヴァキアに再輸出した。

 トランシルヴァニアルーマニア)もオスマン朝の支配が及ぶと、西ヨーロッパの物産はクラクフ経由で持ち込まれるようになる。トランシルヴァニアの商人もクラクフにやってきて、ワインや蜂蜜を販売し、毛織物や亜麻布、金属製品、小間物を持ち帰った。

 クラクフは、他にもトルコの織物やギリシャのワインをハプスブルク領にもたらす役割を担った。16世紀後半以降、オスマン朝ハンガリーへ販売できなくなったオーストリア産の大鎌や金属製品が、クラクフ経由の回り道で輸出されるということもあった。

17世紀の衰退

 16世紀後半、ポーランドのヤギェウォ朝が断絶。ポーランド・リトアニア共和国が成立する。1596年(慶長元年)、宮廷はクラクフからワルシャワに移転し、1611年(慶長十六年)にはワルシャワポーランド・リトアニア共和国の正式な首都となった。

 さらに、17世紀前半のドイツやチェコ地方を主体とした三十年戦争、および17世紀中頃の北方戦争スウェーデンによるポーランド・リトアニア共和国への侵攻)によって、クラクフの貿易は大打撃を受ける*3。シロンスクとの交易も、北方戦争以後はほとんどみられなくなった。

 一方で、スペイン、フランス、イギリスおよび低地地方からクラクフに流れ込む商品の種類は増えた。高級繊維品、上等のワイン、西ヨーロッパの手工品などに対して、ポーランド東部、リトアニア、ロシアからの需要は大きかった。逆にドイツ市場向けと、バルト海沿岸向けの毛皮、蝋、蜂蜜や家畜のような原材料は、クラクフ経由での輸出が続いていた。また、クラクフ市内と周辺の小ポーランド地方向けに食品(穀物、魚)、飲み物、建築材料が輸入されていた。

関連交易品

参考文献

  • 藤井和夫 「中世クラクフの国際商業ーその特色と意義ー」(『経済学論究』巻71 2017)

クラクフの街並み from 写真AC

ヴァヴェル城 Dimitris VetsikasによるPixabayからの画像

*1:ポーランドの南部と南東部を含む歴史的地方名。

*2:ポーランド南西部からチェコ北東部に属する地域の歴史的名称。

*3:モラヴィアへの肉牛や毛皮の輸出は激減し、モルドヴァトランシルヴァニアとの交易も、17世紀後半にはほどんど見られなくなった。オーストリアやイタリアからは金属製品やワイン、絹織物がクラクフに輸出されているが、クラクフからの輸出は何もなかった。