南東ポリネシアに位置するガンビエ諸島の主島。現在はフランス領ポリネシアに属している。周囲を珊瑚礁に守られた直径24キロメートルの大きなラグーン(礁湖)内にある。南東ポリネシアの交易の中心だったとみられる。
マンガレヴァ島
マンガレヴァへの入植は、9世紀ごろ、ポリネシア人の東方進出の中で行われたといわれる。西方向のソシエテ諸島および北西方向のマルケサス諸島までは、それぞれ約1500キロメートルの距離がある。
マンガレヴァ島は湧き水と間欠河川ができるだけの降雨量があり、樹木に恵まれていた。入植者たちはサツマイモやヤムイモ、タロイモ、パンノキ、バナナなどを栽培していたとみられる。また貝、特にクロチョウガイと呼ばれる大型の二枚貝も豊富に生息し、食用だけでなく道具・装身具の材料に用いられた。
大まかな道具の材料となる玄武岩は、近くの火山島で採取できた。しかし手斧などの石器の材料となる良質な石は、存在しなかった。
ピトケアン島、ヘンダーソン島との交易
マンガレヴァの南東およそ500キロメートルに位置するピトケアン島、さらにその北東に位置するヘンダーソン島にもポリネシア人が定住していた。そしてこの二島とマンガレヴァは、入植した当初から互いに交易を行っていた。
交易の状況は、遺物の分析からある程度判明している。マンガレヴァからは、二枚貝の殻で作られた釣り針や野菜の皮剥き器が二島に輸出された。ヘンダーソン島には、玄武岩も輸出していた。用途は、火の中で熱して調理に使う焼き石だったらしい。
ピトケアン島からマンガレヴァ、ヘンダーソン島には、玄武岩製の手斧が輸出された。同島には、良質な玄武岩の供給源であるタウタマ鉱脈があった。またヘンダーソン島には、ピトケアン島産の火山ガラスを用いた刃物も輸出していた。
ヘンダーソン島からの輸出品は、分かっていない。同島に生息するウミガメ(食用)や、オウム、ヒメアオバト、アカオネッタイチョウから採った赤い羽根などが、推測されている。
マルケサス諸島、ソシエテ諸島との交易
マンガレヴァはさらに、北北東に位置するマルケサス諸島、西北西のソシエテ諸島とも交易していた。それぞれ約1500キロメートルの距離がある。
マンガレヴァで収集された玄武岩製の手斧を分析したところ、二丁がマルケサスの採石場産、一丁がソシエテの採石場産のものと同定された。またマルケサス諸島の様式で作られた道具も、マンガレヴァで発見されている。
特に12世紀ないし14世紀の様式のものが大量に見つかっているので、二島間の航海がこの時期に最も盛んだったと推定されている。
交易の終わり
ヘンダーソン島の地層から出た加工品の分析により、交易が11世紀から15世紀中ごろまで続いたことが分かっている。しかし16世紀までには、途絶えたとみられている。
その原因の一つが、マンガレヴァで進行した農地拡大にともなう森林破壊だったとされる。森林破壊の結果、急勾配を流れ落ちる雨が表土を流し去った。これによる土壌浸食により、作物栽培に利用できた区域も大きな被害を受けたとみられる。
そして大きな樹木の減少で、カヌーの製造が出来なくなった。寛政九年(1797)にヨーロッパ人がマンガレヴァ島を「発見」したとき、島民が所有していたのは筏だけで、カヌーは一艘もなかったという。
二島の終焉
マンガレヴァからカヌーが来なくなり、ヘンダーソン島は孤立した。それでも住民たちは、その後も数世代にわたって生き延びたとみられる。しかし慶長十一年(1606)、ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスがこの島を「発見」した際には、そこに住民は存在していなかった。
ピトケアン島もまた、孤立と森林破壊、土壌侵食にさらされた。寛政二年(1790)、反乱者に乗っ取られた武装輸送船バウンティ号が来航した際、既に島民の姿は無かった。
参考文献
- ジャレド・ダイアモンド 『文明崩壊・上』 草思社 2005