戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

雲屯 Van Don

 中国国境からベトナム北部へと連なる多島海にあった北部ベトナムの貿易港。李朝(1009~1225)、陳朝(1225~1400)から黎朝前期(1428~1527)までベトナム北部王朝の主要貿易港として栄えた。

雲屯のはじまり

 雲屯に関する最も古い記録は『大越史記全書』の宋紹興十九年(1149)条の以下の記述とされる。

春二月、爪哇、路貂、暹羅三国商舶入海東、乞居 住販賣、乃於海島等處立庄、名雲屯、買賣寶貨、上進方物。

 1149年(久安五年)に、爪哇(ジャワ)、路貂、暹羅(シャム)からの商船が海東(クァンニン省一帯を指す)を訪れ、居住・商販を乞うたので、大越国は「海島等処」に立庄させて雲屯と名づけ、宝貨を売買させ、方物を上進させた、とある。雲屯は当初から国家によって設定された管理交易港としての性格を帯びていたとみられる。

 なお、雲屯は単一の港ではなかった。遺跡や史料上の「雲屯諸庄」の表現から、ヴァンハイ(雲海)島を中心に周辺島嶼に分布する港湾・貿易拠点の総称とみられる。中心は、時期によって移動したと考えられている。

中越国境の港

 雲屯の上記の性格は、後にさらに強化されていった。1349年(貞和五年)、雲屯に鎮官、路官、察海使などの官職と平海軍を設置したことが記されている(『大越史記全書』)。

 これとほぼ同時期に、中国・元朝の汪大淵が著した『島夷誌略』(交趾国条)にも、大越の貿易管理についての記載がある。

 これによれば、その国に中国から往来するのは密輸船だけで、それも断山(雲屯)の上下に停泊するだけで、「官場」には入れなかったという。また、その理由について、中国人が国情をスパイするのを恐れたからである、としている。

 15世紀初頭、中国明朝はベトナム北部の胡朝を滅ぼし、同地を支配下におさめた。『明史』卷81・食貨五・市舶によると、 明朝は1405年(応永十二年)に諸外国の使節を接遇するための市舶司を福建、浙江、廣東に設けたが、その後に西南諸国の使節を応接するための市舶司を交趾の雲屯に設けている。

 明朝は雲屯の市舶司設置にあたり提擧と副提擧の各1員を配置(明『太宗実録』巻75永楽六年正月戊辰条)。さらに船舶から舶税を徴収する抽分場も設けていた(明『太宗実録』巻84永楽六年十月庚子条)。

 雲屯港址の発掘調査では、コンタイ島第5地点で龍泉窯系の青磁碗や瓶、香炉、枢府手の白磁、褐釉四耳壺といった、14~15世紀を代表する中国の貿易陶磁器が出土しており、雲屯における盛んな交易活動を示している。

黎朝時代の雲屯

 その後、雲屯には東京(ハノイ)を都とする黎朝の支配がおよぶ。15世紀の黎朝下で施行された法典を集めた『国朝刑律』の「雑律章」には、雲屯に関連する対外貿易上の禁令が以下のように載せられている。

  • 沿海の庄塞が商船を迎接し貨物を密輸すること(614条)
  • 雲屯の庄人が中国の貨物を運んで上京する際に、当局の証明や点検を受けずに勝手に売買を行うこと(615条)
  • 化外の商船が雲屯に貿易に来た際、察海使が勝手に海に出て点検を行うこと、また庄主が当局の許可なしに勝手に商船を長期滞在させること(616条)など

 この時期の雲屯については、明朝の文献にもみえる。

 明朝時代の記録とされる海道指針書『順風相送』の「福建往交趾針路」には、福建から雲屯に至る航路が記されている。すなわち、福建閩江の河口付近にある五虎門から出帆して福建沿海に沿って南下。福建南部沿海の浯嶼 を経て、さらに福建と廣東の省境の海島である南澳山を過ぎる。廣東沿海にそって西に向かい、恵州府下の大星尖、廣州府の南西の島嶼である上川島に近い海島の烏猪山を経て、海南島を経由して到着するのが安南国(ベトナム)の雲屯州であるとしている。

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 また1461年(長禄四年)の李賢の『大明一統志』巻90・安南・山川には、以下のようにある。

雲屯山、在新安府雲屯縣、大海中兩山對峙、一水中通蕃國商舶、多聚于此

 雲屯山は新安府の雲屯県の治下にあり、海中にあって諸外国の商船が集散する地として知られていたという。

出土遺物からみる海上交易

 最も管理が厳しかったとみられる14世紀後半から15世紀は、雲屯の出土品が最も多い時期と重なっており、国営貿易の発展期とみられる。

 この時期は、鉄絵、青花(染付け)などの北部ベトナム陶磁器 の生産・輸出が発展した時期でもあった。15世紀中後期には青花を主体とする陶磁器が、インドネシアを中心に東は日本列島から西はカイロ・イスタンブルまで活発に輸出されている。これら陶磁器は、産地から河川を下り雲屯経由で輸出されたものと考えられている。

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 しかし、16世紀以降、国家権力が衰えると外国人が直接ベトナムの内地に入れるようになる。これにより、国営貿易の拠点である雲屯は衰退していく。

関連交易品

参考文献

大越史記全書 3,4 本紀全書 宋紹興十九年(1149)条
国立国会図書館デジタルコレクション