ベトナム北部(安南)で生産された陶磁器の総称。ベトナムにおける施釉陶磁の歴史は古く、二千年以上前から始まっていたとされる。
東南アジア・中東への輸出
14・15世紀、鉄絵、青花(染付け)などの北部ベトナム陶磁器の生産・輸出が発展期を迎える。15世紀中後期には現ハイズオン省北部のチューダウ、ゴイなどの窯場で生産された青花を主体とする陶磁器が、インドネシアを中心に遠くカイロやイスタンブルにまで活発に輸出されていた。
これらハイズオン産陶磁器の多くは、産地からタイビン川水系を下り雲屯経由で輸出されたとも考えられている。背景には新興の中国・明朝が海禁政策によって貿易を制限したことがあり、ベトナム陶磁が代替品として以前の中国陶磁流通圏に進出したものとみられている。
日本への輸出
この時期のベトナム陶磁は、日本にも運ばれている。大宰府遺跡からは元徳元年(1330)の墨書銘のある木片とともに、その陶片が発見されている。他にも草戸(草戸千軒遺跡)などいくつかの遺跡から、ベトナム陶磁が出土している。
日本への移入は当時、東南アジアとの貿易を行っていた琉球を経由して行われたとみられる。琉球の遺跡からも、ベトナム陶磁の破片が発見されている。特に今帰仁城址の14世紀後半から15世紀初めの遺構からは、ベトナムでもこの頃から生産され始めたとみられるベトナム青花磁(安南染付)が出土している。
日本でのベトナム陶磁
中世日本におけるベトナム陶磁の流通量は、けっして多いものではなかった。しかし16世紀後半以降、日本商人の東南アジアへの進出などにより、かなりの量のベトナム陶磁が日本にもたらされる。ベトナム陶磁は茶器としての評価が高く、千利休や秀吉が所持した水指「縄簾」や、徳川家所蔵のベトナム青花磁など遺品も多い。
参考文献
※広島県立歴史博物館内 草戸千軒展示室「よみがえる草戸千軒」展示物