戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

倭板 わばん

 日本から輸出された木材。日宋貿易では日本からの主要な輸出品であった。入宋僧が寺院造営用の木材として南宋に送っており、また棺材としても需要が高かった。

日宋貿易の主要交易品

 1258年(正嘉ニ年)、中国南宋の慶元(寧波)で沿海制置司(南宋水軍の統括)を務めてた呉潜は、皇帝理宗に奏上して「倭商は毎年大規模な貿易を行うが、すこぶる国計の助となるのは倭板、硫黄のみ」と述べている(『開慶四明継志』巻8)。「倭板」が、当時の日宋貿易における日本の主要輸出品であったことがわかる。

 1225年(嘉禄元年)成立の趙汝适『諸蕃志』巻上、倭国の条には、日本の「杉木、羅木」について、「長さ14〜15丈、直径は4尺余り。土地の人は木を割き枋板(板材)にして、大きな船で泉州に運搬して貿易する」とある。また1227年(嘉禄三年)成立の『宝慶四明志』巻六、市舶の条も、日本からの輸入品リストに「松板、柏(杉板か)、羅板」を挙げる。

 なお南宋末期から元朝初期の文人である周密は、『癸辛雑識続集』下倭人居処で、「倭人の所居は悉くその国所産の新羅松をもってこれを為す。即ち羅木なり」としている。このことから、羅木は新羅松であることが分かる。

 新羅松は日本中部の山林で混生しているチョウセンマツの漢名。一方で全国の産地に生える五葉松(ゴヨウマツ)にも当てて使うことがあるという。

重源と栄西の木材寄進

 仁安三年(1168)四月、栄西は博多から中国南宋渡航。四明山・丹丘へと赴いた栄西は、そこで俊乗房重源と出逢ったといわれている。その後、両者は天台山万年寺、阿育王山と巡歴し、同年九月の帰朝まで行動をともにしたという。

 建仁三年(1203)頃に纏められた『南无阿弥陀物作善集』には、重源が明州阿育王山の舎利殿建立や修理の為に、周防国の木材等を送ったことが記されている。

 また栄西は太宰大弐・平頼盛の外護のもと、文治三年(1187)に二度目の入宋を行う(『興禅護国論』)。天台山で虚菴懐敞に相見し、文治五年(1189)、懐敞にともなって天童山に移動。建久ニ年(1192)に帰朝した。

 この間、栄西天台山の観音院・智者塔院を修繕し、覧衆亭を建立。帰朝後は、天童山景徳寺千仏閣修営のために、材木を送付する約束を行ったとされる。なお覧衆亭の建立については、中国明朝の時代に成立した地理書『大明一統志』にも、淳煕年間(1174〜89)に「日本僧栄西建」と記されている。

円爾の木材寄進

 1242年(仁治三年)、中国南宋・臨安(杭州)の径山万寿寺が火災に遭う。博多承天寺の住持・円爾は、かつて径山の無準師範に学び、この前年に日本に帰朝していた。そこで当時日宋貿易に従事していた商人・謝国明らの協力を得て、復興資材として木材(欏木)1000枚を寄進。これに対して、無準師範が円爾に宛てた礼状は、世に「板渡し墨蹟」と呼ばれている。

 また径山の寺務を統括していたとみられる雲頂徳敷も、円爾に礼状を送っている。これによれば、円爾が寄進した木材1000枚のうち、530片は受領済み、330片は未だ慶元(寧波)にあり、残る140片は未到着であったという。

建築材としての需要

 先述の円爾とほぼ同じ1242年(仁治三年)、公家西園寺公経が唐船も派遣。その唐船は檜の木材で造った三間の家屋一宇を積載し、南宋の皇帝もこれを見たという*1。この唐船は七月に帰朝し、その際に、銭貨10万貫、鸚鵡、水牛を持ち帰った(『民経記』)。

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 また13世紀中頃、明州の翠岩寺が火災に遭った後、その僧無文道王璨は、日本の僧宛てに手紙で木材の勧進を依頼している(『善隣国宝記』上)。依頼を受けた僧の名は不明だが、京都の泉涌寺の僧・湛海である可能性が指摘されている。湛海は南宋留学から1255年(建長七年)頃に帰朝した後に、明州の寺を復興するために良材数千片も送ったとされる。

棺と扇

 日本産木材は棺材としての需要も大きかった。南宋文人陸游は子孫に厚葬を禁じ、倭船が慶元、臨安(杭州)に来れば良質の棺を30貫で購入することができるとしている(『放翁家訓』)。当時、南宋では棺材の消費が多量で、また奢侈の風習で良質の棺材が高騰していたという。日本産木材は南宋産よりもコストパフォーマンスに優れていたとみられる。

 一方で、『敵帯稿略』巻一「禁銅銭申省状」に、日本から舶来した板木について、「板木は何等急切の用を済すを知らず。これ無しと雖も未だ棺木無くしての死を送るが如きに至らず。豈にその来たるを禁絶すべからざらんや」と述べられている。銅銭流出を招くような木材購入については、南宋国内でも厳しい批判があったことがうかがえる。

 また日本の杉材は高麗にも輸出されていた。1123年(保安四年)、北宋の使者として高麗を訪れた徐兢は、同国の「杉扇」は、日本の白杉を用いて製造されたと記している(『宣和奉使高麗図経』)。

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その後の倭板

 中国明朝の至正年間(1341〜67)に明州地方のことを記した寧波の地方志『至正四明続志』巻五には、明州での交易品のリストがある。その中に日本からの木材と思しき「倭枋板柃」「倭條」「倭櫓」(羅木か)が挙げられている。

 しかし以後、日本の木材は日明貿易の上で姿を消す。

参考文献

  • シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア(訳 河内春人) 『モノが語る 日本対外交易史 七ー十六世紀』 藤原書店 2011
  • 有馬嗣朗 「入宋僧の勧進活動について」(『印度學佛教學研究』第47巻第1号 1998)
  • 張隆義 「宋代における木材の消費と生産ー江南と華北の場合ー」(『待兼山論叢 9 (史学篇)』 1975)

諸蕃志 倭国条 (国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:ただし南宋側の史料には、その記録は残っていない。