戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鉄丸銃筒(日本) てつがんじゅうとう

 鉄製の弾丸を発射したとみられる銃筒。中国明朝の火器であったが、16世紀中頃に中国人の密貿易者によって日本にも伝えられた。日本人による製造も行われ、朝鮮王朝でも導入が図られた。

明宗の危惧

 1545年(天文十四年)八月、朝鮮の済州島に荒唐船(中国の密貿易船)が漂着。同船には銃筒をよく解する唐人が搭乗していた。その銃筒は、朝鮮で一般的に用いられてた、箭矢を発射する銃筒ではなく、鉄製の弾丸を発射する「鉄丸銃筒」であり、朝鮮政府では彼からその用法を伝習することにした(『明宗実録』)。この「鉄丸銃筒」は、鉛の弾丸を発射する火縄銃ではなく、中国の明朝で広く用いられた前装式の銅銃であると推定されている。

 なお朝鮮の明宗は、朝鮮軍への「鉄丸銃筒」導入の理由について、日本人が唐人からこの「銃筒」を伝習したならば大変なことになる、との懸念を挙げている。既にこの漂着の5ヶ月前の1545年(天文十四年)三月には、日本の五島列島の倭船が、多くの兵器を舶載して全羅道に来航。朝鮮王朝に「火炮」を進献しようとしたという(『仁宗実録』)。

日本への伝播

 明宗の危惧は、現実のものとなった。1547年(天文十六年)三月、朝鮮政府は明朝に対して、「倭奴」(日本人)は以前は火炮を持っていなかったが、現在は頗る保有している、と伝えている*1(『世宗実録』)。同年七月にも、領議政の伊仁鏡らが明宗に対し、福建人が倭奴に兵器を渡し、火炮の技術を教えていると報告。自国と明朝にとって不利な事であると述べている(『明宗実録』)。

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 また1553年(天文二十二年)六月、三浦羅古羅(三郎五郎?)らの倭寇集団が明朝から帰還する途中に、黄海道に漂着して捕縛された。三浦羅古羅らから聞き取りを行った兵層判署の李淩慶は、日本の博多には百余名の唐人が来居して密貿易に従事しており、さらに「鉄丸火砲」などの武器も日本人に教習している、と上奏している(『明宗実録』『東皐先生遺稿』)。福建人が日本人に伝えた「火炮(火砲)」とは、鉄製の弾丸を発射する銃筒類であったことが、このことからも分かる。

朝鮮王朝への輸出

 一方で、朝鮮王朝は、日本人からこれらの銃筒を伝習することも図っている。1554年(天文二十三年)十二月、朝鮮の備辺司*2は、日本人の信長に製作させた「銃筒」について、設計は精密であったが、「薬穴」に火を入れにくく、威力は不十分であったと報告している(『明宗実録』)。翌1555年(天文二十四年)には、やはり備辺司が、日本人の平長親が持って来た「銃筒」について報告。至って精巧であり、火力もまた猛烈である為、賞賛せざるを得ない、と評価を述べている(『明宗実録』)。

 信長の銃筒が、「薬穴」に火を入れにくいと評価されていることから、この銃筒は西洋の火縄式点火装置ではなく、薬室上部の火穴から点火する、伝統的な銃筒であったことがうかがえる。16世紀後半、朝鮮王朝では従来の小型銃筒に代わり、新型の勝字銃筒が製造されている。明朝や日本から導入された鉄丸銃筒の影響を受けての変化と推定されている。

 ただ日本では16世紀後半に、銃筒に比べてはるかに性能の優れた火縄銃が普及。銃筒の使用は廃れていったと考えられる。

参考文献

  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)

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*1:1547年(天文十六年)三月、朝鮮近海に漂着した中国福建の密貿易者341人を明朝に送還した際、遼東郡司への咨文に記されている。これによれば、福建の人民は、以前は朝鮮に至る者は無かったが、1544年(天文十三年)に李王乞等が朝鮮に漂着・送還された頃から、日本に赴いて貿易しようとし、風に流されて朝鮮に漂着するようになったという。そして今回送還する馮淑を含めて、皆が軍器・貨物を舶載しており、倭奴が以前は持っていなかった火炮を持っているのは、このような輩が現れた為である、としている。

*2:備辺司は国境地帯の防備策定にあたる中央機関。1554念(天文二十三年)に常設化された。