戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

石火矢 いしびや

 戦国期、日本で使用された大砲。日本では「石火矢」と呼ばれた。一方で史料上には「小筒」「大筒」あるいは「大鉄炮」があり、これらの違いについては不明。ヨーロッパから伝来した仏郎機砲とみられるが、中国的な火炮や大型の火縄銃を意味している可能性もある。

薩摩東郷氏の「番銃」

 天文十七年(1548)三月、中国の福州出身の林陸観は、薩摩東郷氏から船の提供を受け、浙江省沖の密貿易拠点・双嶼に向けて京泊港出航した。この時、東郷氏からは武器の供与も受けており、その中に「番銃二架」があった。

 しかし林の船は四月二日、双嶼南方において明軍に拿捕される。明軍の将・盧鏜の報告によれば、船には大仏狼機銃2門が搭載してあったという(『甓餘雑集』)。東郷氏が林に渡した「番銃」とは仏狼機銃(仏郎機砲)であったことが分かる。

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 また同年五月二日、徽州出身の方三橋の船の乗員である陳瑞が明軍に捕縛された。陳瑞の供述によれば、方三橋の船には小型の鉄製仏郎機砲4〜5門や鳥嘴銃4〜5挺が装備されていたという。また、これらの火器は、「番人」(外国人)が先年に日本に渡航した際に、合戦して奪われたものだと述べた(『甓餘雑集』)。

 中国人密貿易商やポルトガル人が九州南部に来航する中で、彼らの装備する仏郎機砲が現地の日本人勢力に渡っていたことがうかがえる。

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大友氏とイエズス会

 永禄三年(1560)三月十六日、将軍・足利義輝は豊後の大友宗麟(義鎮)に御内書を送り、宗麟が進上した「石火矢」と「種子嶋筒」について「殊無類候」と喜びを伝えている。これが日本の史料上における「石火矢」の初見とされる。

 大友氏の石火矢は、イエズス会およびポルトガルを通じて輸入されたとみられる。天正元年(1573)、宗麟はポルトガル統治下にあったゴアのインド副王から大砲を得ようと試み、マカオのカルネイロ司教にその斡旋を依頼している。カルネイロ司教宛ての書簡には以下のようなことが記されている。

また貴下ならびにコンパニヤ(イエズス会)のパードレ等の斡旋によりて総督(インド副王)が大砲(espera)1門を予(宗麟)に贈られたるを聞きたるにより、貴下のわが領国に来られんことを大に希望したればなり。右大砲がマラッカの船中にて失はれしは、わが不運なるが安全に到着したると等しくこれを感謝し、貴下に負ふところありと思考す。

(中略)予が再び大砲を求むるは、海岸に住みて敵と境を接し、防御のためこれを要することが大なるがためなり。予もし領国を防御し、これを繁栄ならしむるを得ば、領内のデウスの会堂、パードレ及びキリシタン等、ならびに当地に来るポルトガル人一同も亦然るべし。

 大友氏がイエズス会を通じて、既に何度か石火矢の移入を図っていることがうかがえる。

 天正四年(1576)、肥後国高瀬津に石火矢が荷揚げされた。宗麟は城蔵人大夫が石火矢運搬の人夫を徴発していることを喜び、高瀬津には奉行を派遣することを伝えている(「南蛮文化館所蔵文書」)。

 大友氏は小型の砲も保有していた。天正三年(1575)の戸次道雪から娘の誾千代への譲り状には、「大鉄炮十五張」「小筒 壱張」がみえる。またこの大鉄炮と小筒は主家から拝領し、秘蔵していたと記されている(「立花家文書」)。

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織田氏の大船と艦載砲

 天正六年(1578)、織田氏は大坂本願寺海上封鎖するため、伊勢国で建造した大船7隻を木津川沖に配備。イエズス会司祭オルガンティノは、この大船を実見して以下のように書簡に記している。

船には大砲三門を載せたるが、何地より来りしか考うること能はず。何となれば、豊後の王が鋳造せしめたる数門の小砲を除きては、日本国中他に砲なきこと、我らの確知する所なればなり。予は行きてこの大砲とその装置を見たり、また無数の精巧にして大なる長銃を備へたり。

 豊後大友氏が領国で小砲を鋳造していた事とともに、織田氏イエズス会が関知しないルートで石火矢を調達し、大船に搭載していたことが分かる。

 ただ宣教師ルイス・フロイス天正十三年(1585)八月の書簡で、「(小西行長の軍船には)豊後の国主が信長に贈った大砲一門を備えてあった。」と記しており、大友氏から織田氏に石火矢の提供があったことが分かる。

 一方で同年十月、フロイス書簡に「信長がシナ人に命じて伊勢の国において鋳造させた大砲一門と小砲数門を用いたが(後略)」の記載があり、織田信長が中国人技術者を使って大砲*1を鋳造させていたことが分かる。

 なお『多聞院日記』天正八年(1580)閏三月十七日条には、織田氏配下の筒井順慶が「テツハウ(鉄炮)ヲイ(鋳)サスル」ために奈良中の釣鐘を徴発したとする記事がある。釣鐘は青銅製であることから、鉄炮ではなく青銅製の大砲を鋳造することが目的であったと考えられている。

毛利警固衆、大筒で城を砲撃

 先述の大友氏と九州北部をめぐって争い、織田氏と木津川沖で戦ったのが毛利氏だった。同氏もまた大筒を保有・運用している。

 天正十一年(1583)四月、織田方に寝返った来島村上氏の鹿島城(伊予国風早郡)に対し、毛利警固衆の白井晴胤らが安宅船をもって攻撃(「白井文書」)。五月には「大筒」が前線に送られており(「萩藩譜録 白井友之進胤延」)、安宅船から鹿島城に砲撃を行ったものと思われる。

 江戸後期に毛利家で編纂された『防長古器考』*2には、益田景祥を初代とする問田益田家に伝わった「南蛮制作之大筒」が、寸法付きで図示されている。砲身の形状と意匠から、東南アジア製の仏郎機砲(石火矢)であるとみられ、戦国期の毛利領国で使用されたと推測されている。

 同じく『防長古器考』には、海賊衆・能島村上氏を祖とする村上采女武親の家に伝えられていた「二貫目玉大筒」も掲載されている。『防長古器考』では、中国明朝の『武備志』にみえる虎蹲砲ではないかとする有識者の見解を紹介。また(戦国期の)村上氏が海上戦に優れていたのは、このような兵器を能く用いたためではないかと記している。

九州諸勢力の石火矢使用

  大友氏と同じく南蛮貿易を行った平戸の松浦氏も、石火矢、ハラカン*3を館や城々に買いおいていたという(『大曲記』)。宣教師ルイス・アルメイダは永禄九年(1566)九月八日付の書簡の中で、五島侵攻を図る平戸松浦氏が、多数の小銃と砲数門を準備しているとの情報を得たことを記している。

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 また天正十二年(1584)、龍造寺氏と島津氏・有馬氏連合軍が島原半島で合戦した際、各陣営が大砲を運用していたことがイエズス会日本年報に記録されている。

 龍造寺氏は少数であったが大砲を戦場に曳いて行ったようであり、有馬氏も随所に大砲を据え付けたという。島津氏も大砲2門を有馬氏の大船に載せて艦載砲として使用。有馬勢のキリシタンは大砲発射の際に、パーテル・ノステルの祈祷を行ったとされる。

 有馬氏の大砲は、イエズス会を介してポルトガル勢力から提供されたものかもしれない。一方で平戸松浦氏や島津氏は、領国に来航する倭寇勢力から獲得した可能性もある。

羽柴秀吉と大友氏

 天正十四年(1586)、薩摩島津氏の侵攻を受けた大友宗麟は、大坂城羽柴秀吉のもとを訪れ、支援を要請。この時、宗麟は大坂城を見物しており、そこに「大手火矢」「大筒」が備えてあったことを本国の家老衆に伝えている。

 一方で小田原征伐時においても、石火矢は大友氏の重要な贈答品だった。天正十八年(1590)二月、小田原北条氏攻めに加わっていた羽柴秀次(秀吉の甥)は、豊前国領主・黒田孝高を通じて大友義統(宗麟の子)から石火矢を贈られている(「大友家文書録」)。

 また同年五月には、小田原城を攻めていた羽柴秀吉の元に、弟の秀長から「石火矢五張」が届けられている(「小早川家文書」)。

朝鮮出兵への石火矢大量投入

 天正二十年(1592)四月から始まった朝鮮半島への侵攻では、多くの石火矢が準備された。秀吉の奉行である吉田益庵は、播磨国野里村に対し「唐入之御用」の為として「大鉄炮」と「石火矢」の製造を命じている。

 開戦後の七月二十二日、秀吉は池田輝政朝鮮出兵用の「大船」と「大筒」を、文禄二年(1593)七月には島津義弘小早川隆景に、それぞれ「壱丁 大つつ」を支給している。なお島津義弘は文禄三年(1594)三月にも「石火矢弐挺、薬三百斤、玉三百斤」「大筒玉薬」を秀吉から届けられている(「島津家文書」)。朝鮮半島に渡海した諸将に対し、秀吉が大筒、石火矢を供与していたと推測される*4

 一方で文禄五年(1596)九月、島津氏は石田三成に「石火箭五丁」を贈っている(「旧記雑録」)。島津氏が独自の石火矢入手ルートを持っていたことがうかがえる。

 慶長二年(1597)の再出兵においても、秀吉から諸将に石火矢が供与された。慶長三年(1598)三月十八日付の寺沢志摩守(広高)宛の書状によれば、小西行長島津義弘立花宗茂宗義智*5に対して、合わせて「石火矢」14丁、「くすり(火薬)」2500斤、「なまり(鉛)」1400斤、「石火矢玉」140が遣わされている。

石火矢の普及と大石火矢の登場

  慶長五年(1600)十二月五日、関ヶ原合戦で西軍に属した土佐長宗我部氏は領国を没収され、居城である浦戸城も徳川家臣・井伊直政に接収された。この時、同城には大小の「石火矢九張」があった(「土佐国蠹簡集」)。諸大名が、自前の石火矢を多く保有していた状況をうかがうことができる。

 慶長十九年(1614)からの大坂の陣においても、多くの大筒、石火矢が使用された。さらに徳川家康オランダ東インド会社から「大石火矢」と呼ばれる巨砲を輸入。その砲弾は「四貫目五貫目」(15〜18.5キログラム)もあったとされる(「当代記」)。

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参考文献

  • 宇田川武久 『歴史文化ライブラリー146 鉄砲と戦国合戦』 吉川弘文館 2002
  • 上野淳也 「大砲伝来ー日本における佛朗機砲の伝播と需要についてー」(平尾良光・飯沼賢司・村井章介 編 『別府大学文化財研究所企画シリーズ③「ヒトとモノと環境が語る」 大航海時代の日本と金属交易』 思文閣出版 2014)
  • 小笠原長鑑・林以成 編 『防長古器考 上巻』 マツノ書店 1992
  • 外山幹夫「松浦氏の領国支配」(『中世長崎の基礎的研究』 思文閣出版 2011)
  • 土居聡朋・村井佑樹・山内治朋 編 『戦国遺文 瀬戸内水軍編』 2012 東京堂出版

和漢三才図会 国立国会図書館デジタルコレクション

武備志38 虎蹲砲(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:中国では1521年(大永元年)には仏郎機砲が国産化されていた。このためヨーロッパから伝来した仏郎機砲である可能性があるが、一方で中国的な火炮である可能性もある。

*2:毛利家中の諸家に伝わる宝器の記録。安永三年(1774)に完成。

*3:鷹砲(ファルカン)とも。ファルカンとは、中口径で方針が長い、中型の子砲式後装砲、すなわち仏郎機砲を指す。

*4:ほかにも、文禄五年(1596)に立花宗茂が籠城した安骨浦城には、秀吉から「大筒、小筒、同丸薬」が支給されていたという(「佐田文書」)。

*5:他に毛利秀包、高橋統増、筑紫広門、柳川調信、鍋島直茂