戦国期日本における最大級の戦艦。小型で500石、大型では2000石にも及ぶ積載量をもち、盾板(装甲用の硬く厚い板)で装甲し、甲板上には2層ないし4層の楼閣(矢倉)を備えていたといわれる。その巨大な積載量を生かして鉄炮や大筒(石火矢)などの大小の火器を搭載して、海戦や拠点攻略に絶大な威力を発揮した。
一次史料にみえる安宅船
安宅船が一次史料にみえるのは、二つの書状のみといわれる。一つは天正年間、来島村上氏の有力者で鹿島城主の得居通幸の書状。もう一つは天正十一年(1583)、その鹿島城を攻撃していた毛利氏警固衆の白井晴胤に宛てた河野通直の書状。
運用方法と弱点
河野通直は書状の中で、「夜前之風波安宅心元無く候」と記して、前夜の風波による安宅船の安否を気にしている。安宅船がその巨大さゆえ、風や波に対して脆弱な船であったことがうかがえる。白井晴胤は鉄炮や火矢、後には大筒も投入して攻撃を加えて一時は城を炎上させており、これらの火器が安宅船の搭載兵器であったと思われる。
東国の安宅船
また一次史料では確認できないものの、安宅船は東国にもあった。『甲陽軍鑑』によれば、武田水軍の将・小浜景隆は「あたけ」を含む船団を有していた。
また『北条五代記』では、北条氏直が伊豆で「あたけ」と名付けた船を十艘建造したことが記されている。この「あたけ」は一方に櫓25丁、両方合わせて50丁立の兵船であった。さらに防弾用の椋の木板で装甲し、下に水手50人、上の矢倉に侍50人がいて、矢狭間から鉄炮が放てるようになっていたという。
参考文献
- 宇田川武久 『戦国水軍の興亡』 平凡社 2002