戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

木鉄砲 きてつほう

 砲身を木で拵えた木砲。木筒とも呼ばれた。16世紀中期の中国明朝では日本の「木銃」の模造が図られていた。江戸期の軍記物『南海治乱記』では、木鉄砲は伊予河野氏から始まるとする。

倭寇の「木銃」

 16世紀中期、中国明朝の朗瑛は、類書『七修類稿』で「倭国物」についてふれ、(中国には)「銕銃」(鉄砲)はあるが「木銃」はない、としている。また「鳥觜・木銃」について、嘉靖年間(1522〜1566)に日本が浙江を犯した際に倭奴を捕らえ、鹵獲した武器をもとに造らせた、と記している。

 「鳥嘴」はヨーロッパ伝来の火縄銃を意味し*1、「木銃」は木材で造られた火炮とみられる*2。浙江地方を襲った倭寇は「鳥觜」(火縄銃)と「木銃」といった火器を備えており、明軍がこれを鹵獲して模造を試みていたことが分かる。

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伊予河野氏の「木鉄砲」

 木製の火砲は、日本の文献にもみえる。寛文三年(1663)に香西成資が著した『南海治乱記』には、伊予河野家から「木鉄砲」が起こったとする記述がある。

 永禄年間、伊予河野氏は海辺防衛の為に鉄砲の導入を図った。そこで同盟関係にあった大友氏を通して豊後府内の鍛冶を呼び寄せ、塩硝の取り扱いや玉薬の調合を習わせ、国内に鉄砲を広めた。

 一方で「大鉄砲」の製造も試みたが、失敗。そこから工夫を凝らし、松の生木を彫って筒とし、竹の輪を造って桶の輪のように懸けて固めたところ、砲弾を発射しても木筒は損壊せずに持ちこたえた。河野氏はこの木筒を海辺の高楼に備え、攻め寄せてきた大船を数艘沈めて敵方を撃退。以後、宇摩風早の海辺に敵船は近づかなかったという。

 『南海知乱記』は江戸期成立の軍記物であり、そのまま信じることは出来ない。しかし、先述のように16世紀中期の明朝に日本の「木銃」が知られていたことをふまえると、永禄年間の伊予で木鉄砲が使用された可能性はある。

 なお中国明朝の鄭若曽は、1562年(永禄五年)に著した『籌海図編』の中で、倭寇を構成する国々として、薩摩、肥後、長門、大隈、筑後博多、日向、摂津、紀伊種子島豊前、豊後、和泉を挙げている*3。これらの国から伊予に「木銃」が伝わったのかもしれない。

史料上の木鉄砲

 慶長十九年(1614)十二月十二日、大坂冬の陣において、大坂方からは重さ5〜6斤の砲弾が放たれており、徳川方は木鉄炮によるものとみていた。当時、木鉄炮は多く造られ、大坂城内に備えられていたという(『駿府記』)。

 また元和八年(1622)十一月、改易処分された本多正純宇都宮城の城付武具にも四尺二寸の木筒がみえる。

参考文献

  • シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア(訳 河内春人) 『モノが語る 日本対外交易史 七ー十六世紀』 藤原書店 2011
  • 宇田川武久 『戦国水軍の興亡』 平凡社新書 2002
  • 宇田川武久 『歴史文化ライブラリー146 鉄砲と戦国合戦』 吉川弘文館 2002
  • 上野淳也 「大砲伝来ー日本における佛朗機砲の伝播と需要についてー」(平尾良光・飯沼賢司・村井章介 編 『別府大学文化財研究所企画シリーズ③「ヒトとモノと環境が語る」 大航海時代の日本と金属交易』 思文閣出版 2014)
  • 香西成資 『南海治乱記』 香川新報社 1913

南海治乱記巻之七(国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:当時の中国ではヨーロッパ伝来の火縄銃を「鳥銃」や「鳥嘴銃」と呼んでいた。

*2:中国において「銃」は、小型〜中型の火器を意味する。

*3:なお香西成資は『南海通記』の中で、明朝の嘉靖年中に、薩摩・肥後・肥前・博多・長門・石見・伊予・和泉・紀伊の賊船が明朝の辺境を侵したと記している。