戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

南澳 らまう

 潮州府の東南に面した外海に浮かぶ南澳島の港町。16世紀、日本との密貿易の拠点となった。明代には所謂「潮州の海寇、多く南澳より入り」と言われ(『南澳程郷議』)、海寇の拠点でもあった。

明朝の防衛放棄

 明朝の初期、南澳島には水塞が設置されていた。しかし支配はうまくいっておらず、1382年(永徳二年)、南澳の住民が抵抗する為として、彼らを新設の潮陽千戸所に従軍させる命令が下された(『東里志』)。

 1404年(応永十一年)、南澳の民は島に復帰したが、その5年後には島民は再度大陸に移住させられた。その理由は「倭夷、海を越え劫掠す、防御に難し」というものであった(『南澳志』)。

 以後、南澳島は明朝の支配の外に置かれた。このため15世紀から16世紀にかけて、日本や東南アジア、福建・広州などから多くの商人が訪れ、一大密貿易拠点となっていく。

貿易の中継地

 ポルトガル人のフェルナン・メンデス・ピントは、琉球王国のジャンク船が銅を売りに行く港の一つにラマウ(南澳)を挙げている(『東洋遍歴記』)。ピントは、1547年(天文十六年)1月16日、薩摩の山川を出港してマラッカに向かう途中、中国のシンシェウを経由してラマウに寄航し、食料を補給したとする(『東洋遍歴記』)。

 またラマウ沿海を航行中に、琉球から来たパタニのジャンク船と遭遇したことがあった。その主は中国の海賊キアイ・パンジャンであり、30名のポルトガル人が同乗していたという(『東洋遍歴記』)。南澳が東南アジア・中国・琉球・日本の貿易の中継地であったことがうかがえる。

日本との交易

 明朝の嘉靖年間(1522年〜1566年)、富を持つ倭人は、福建人と密貿易を行うために南澳に集まり、全て銀でもって取引を行ったという(『続文献通考』巻31市糴考・市舶互市条)。『日本一鑑』には、1554年(天文二十三年)、徐銓らが倭を誘って南澳で交易を行い、再び日本へ行こうとしたところで明軍に捕捉され、徐銓は入水し、他の者は捕縛されたことがみえる(『日本一鑑』窮河話海 巻6)。

 王直の元配下で、外国との密貿易に従事していた洪廸珍は、王直の死後に残党の倭寇を吸収。南澳と漳州湾沖の浯嶼を拠点とした(『明世宗実録』)。弘治元年(1555)から翌年、洪は日本の富夷を南澳に誘致して交易を行い、以後毎年密貿易を行って巨万の富を得たという(康煕『海登県志』巻20叢談志)。

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海寇の拠点

 一方で『日本一鑑』は、南澳は1558年(永禄元年)までは海上交易の拠点であったが、以後は賊の巣窟となったとする。南澳を拠点とする海寇・許朝光は、倭寇を誘引し、倭寇は福建・広東方面の沿海地を襲撃しては南澳に帰還したという。劫奪された貨財や攫われた人間は、密貿易によって売り払われた(『日本一鑑』窮河話海 巻6)。

 同じく南澳を拠点とする海寇・謝策は、1560年(永禄三年)三月、福建の走馬渓に侵入し、ついで泉州や漳州各地を分掠した(『籌海図編』「寇踪図譜」)。その後も、呉平や曾一本ら海寇の拠点になっていることが史料に見える。

明朝の南澳支配の復活

 1562年(永禄五年)、明将・戚継光は軍を率いて南澳に上陸し、呉平らの勢力を駆逐し、三城を付近に設けて防御の拠点とした(光諸『潮州府志』)。1567年(永禄十年)には、兪大猷らもまた南澳を拠点とする曾一本を海岸付近で殲滅。1571年(元亀二年)には楊老の船が停泊し、梁士楚らに追われている(光諸『潮州府志』)。

 1575年(天正三年)、明朝はついに南澳に副総兵官を設けた。しかし明朝内部には依然として否定的な意見があり、1582年(天正十年)、潮州知府の郭子章は専門の「南澳程郷議」を書き、南澳における副総兵官設置の利点を提唱している。

明清交代の中で

 1640年(寛永十七年)、元海賊で明朝に招撫された鄭芝龍が、南澳の総兵に就任。4年後に福建都督に昇進すると、総兵の職はその部将・陳豹に引き継がれた。

 陳豹は1646年(正保三年)に鄭芝龍が清朝に降伏した後も、南澳で依然として明朝を支持した。この為、南澳は鄭成功の反清復明活動の最も重要な軍事拠点の一つとなり、鄭成功は何度もここから大陸各地へ侵攻して行った。また、鄭氏勢力は中国東南海域の海上利権を独占しており、南澳は重要な海上貿易基地となった。

 しかし1662年(寛文元年)、陳豹は清朝に降伏。同年、清政府は潮州沿海における大規模な「遷海」政策を行い、南澳島と大陸沿海から数十キロメートルの住民は全て内陸へ移動させられた。1682年(貞享元年)、清朝が台湾を統一。同年に海禁は解除され、ようやく南澳の住民は元の生活を取り戻した。

 南澳島は、泉州・漳州・潮州の海上活動の中で特殊な位置にある為、清朝の規定では閩・粤両省の共同管理となった。その隆澳と深澳の両地は広東の潮州府に属し、雲澳と青澳は福建の漳州府に属した。

参考文献

  • 伊川健二 「16世紀前半における中国島嶼部交易の不安と安定」(鈴木英明 編 『中国社会研究叢書 21世紀「大国」の実態と展望7 東アジア海域から眺望する世界史―ネットワークと海域』 明石書店 2019)
  • 陳春声(白井順 訳) 「明代における潮州の海防と沿海地域の社会ー泉・漳・潮州における海上勢力の構造およびその影響ー」(井上徹 編 『東アジア海域叢書2 海域交流と政治権力の対応 汲古書院 2011)
  • 佐久間重雄 「中国嶺南海域の海寇と月港二十四将の反乱」(『日明関係史の研究』 吉川弘文館 1992)

潮州府図 籌海図編1(国立公文書館デジタルアーカイブ