戦国期の豊後国では石火矢が製造されていた。豊後を領国とする大友氏は、貿易を通じて倭寇やイエズス会(ポルトガル)勢力から石火矢技術を得たとみられる。大友氏滅亡後、その人材と技術は徳川家をはじめ各大名家に流出した。
豊後大友氏とポルトガルと倭寇
永禄三年(1560)三月十六日、将軍・足利義輝は豊後の大友宗麟(義鎮)に御内書を送り、宗麟が進上した「石火矢」と「種子嶋筒」について「殊無類候」と喜びを伝えている。これ以前に大友氏が石火矢を入手していたことが分かる。後に大友氏はイエズス会を通じて、ポルトガルから石火矢の輸入を図っていたことが知られる。
大友氏は倭寇との交流もあった。倭寇の密貿易船は、仏郎機砲を搭載していることもあり(『甓餘雑集』)、また倭寇は銅銭を材料に銃(小型〜中型の火器を意味する)を鋳造していたともされる(「海寇議」)。
大友氏の領国である豊後国には、ポルトガルや中国明朝から、石火矢(仏郎機砲)の製造技術がもたらされた可能性がある。なお後述の渡辺宗覚は、大友氏の命令で中国に渡って(あるいは南蛮人から)石火矢の技術を身につけたとされる。
宣教師の情報
天正六年(1578)、織田氏は大坂本願寺を海上封鎖するため、伊勢国で建造した大船7隻を木津川沖に配備。イエズス会司祭オルガンティノは、この大船を実見して以下のように書簡に記しており、豊後大友氏が小型の砲を鋳造していたことが分かる。
船には大砲三門を載せたるが、何地より来りしか考うること能はず。何となれば、豊後の王が鋳造せしめたる数門の小砲を除きては、日本国中他に砲なきこと、我らの確知する所なればなり。
また宣教師ルイス・フロイスは天正十三年(1585)八月三十一日付の書簡で「(小西行長の軍船には)豊後の国主が信長に贈った大砲一門を備えてあった。」と記している。あるいは豊後で製造された石火矢が、織田氏に贈られていたのかもしれない。
島津氏が鹵獲した大砲
同じ天正六年(1578)、大友宗麟は日向国に侵攻して薩摩島津氏と対峙したが、十一月十二日、耳川の合戦に敗れ、豊後国に撤退した。ルイス・フロイスが著した『日本史』によれば、「その場に持っていた非常に優秀な大砲を放棄したまま出発して行った」という。
島津氏に伝わる資料を収蔵している尚古集成館には、島津軍が大友氏との戦闘の中で得たものとされる仏郎機砲(石火矢)が収蔵されている。一説には、耳川の戦いで鹵獲したものであるという。
この大砲に用いられた金属に関しては、鉛同位体比分析に基づく産地同定から、日本産の金属を用いている事が判明してる。すなわち国産砲であった。
宗麟から義統へ
天正十二年(1584)四月、大友宗麟は志賀道輝、田原親家を通して後継者の大友義統へ心得を示す(「大友家文書録」)。その条々の中に以下の一文がある。
屋敷普請等、折々油断なく申付られ肝要に候、殊に石火矢・手火矢、弥(いよいよ)、数を申し付られ、玉薬など、段々にその心懸専一に存候こと
島津氏に対して劣勢に陥った当時の大友氏が、石火矢と手火矢(鉄炮)製造に力を入れていたことがうかがえる。
なお宗麟の跡を継いだ義統は、父と同じく石火矢を畿内政権への贈答品としても用いた。天正十八年(1590)二月、小田原北条氏攻めに加わっていた羽柴秀次(羽柴秀吉の甥)に対し石火矢を贈呈。秀次は黒田孝高を通じて「別而欣悦候」と礼を述べている(「大友家文書録」)。
大友氏滅亡後の石火矢製造
文禄二年(1593)、大友義統は朝鮮半島での消極的な軍事行動を理由に、羽柴秀吉によって改易されてしまう。これにより、豊後大友氏が保有していた石火矢製造技術は各地に拡散していくことになる。
豊後国岡(現大分県竹田市)には、文禄三年(1594)に中川秀成が移封される。江戸期の文政年間に中川家歴代当主の年譜が編纂されるが、慶長二年(1597)の秀成の譜に、以下のような記述がある。
中川氏は大友氏家老の田原氏等を召抱えており、大友氏の石火矢製造技術を受け継いでいた可能性がある。
渡邊三郎太郎儀、大友殿家来ニ而罷在候処
天和四年(1684)、「石火矢師 渡邊主膳」が幕府に提出した由緒書によれば、彼の曽祖父・渡辺三郎太郎(後に宗覚)は大友氏の家来で、石火矢を扱った人物だったという(『譜牒余録』)。
大友氏に仕えていた宗覚は、石火矢を仕り、撃ち方まで身に付けるよう命じられた為、「唐」(中国)へ渡り、技術を習得して帰国したという。大友氏が滅びると浪人となったが、豊後府内に入国した早川長政が宗覚の石火矢を徳川家康に献上したところ、家康は「唐物之様」であると高く評価した。
以来、家康は戦の際などに宗覚親子を召し出した。大坂の冬の陣では駿河で「道具」(石火矢か)を仕上げ、夏の陣では大坂落城後に鉄や銅を吹き集めたとされる。その他にも度々「御筒」などを仕上げたとある。
なお「大友家文書録」にも、「義鎮好鉄砲、令渡辺氏者、学其工於南蛮人、所習而作、奇世以為珍、渡辺世々以此工為業」とする編纂者の注がある。宗覚が、中国人あるいは南蛮人から石火矢や鉄砲の技術を学んだことがうかがえる。背景には、上述のような大友氏とポルトガル・倭寇との交流があったと考えられる。
大分市歴史資料館に寄託されている府内城跡所在の「松栄神社文書」には、17世紀初頭、徳川家臣・成瀬正成らが渡辺宗覚に「石火矢」の製造を命じた書状がある。年不詳五月、石火矢五挺が完成。一方で「あかかね」(銅)が不足しており、「矢こ」もしくは「入こ」を3つ付属させるところを、2つの付属になるものがあると記してある。
「矢子」或いは「入子」が付属する銅製の石火矢であることから、宗覚が鋳造したのは、いわゆる仏郎機砲であったことがうかがる。