オランダでは16世紀半ば以降、大砲への需要が急速に高まった。17世紀に入るとイギリスやドイツ、スウェーデン等から大砲を輸入する一方、自国でも鋳鉄砲および青銅砲の生産を開始。材料の中には、日本から輸入した銅があったともいわれる。
大砲需要とその輸入
16世紀半ば以降、オランダは大砲への需要を急速に高めた。その背景にはスペインとの恒常的に戦争状態であったこと、海軍の組織化とさらなる武装化が必要だったこと、海外への商業的進出を本格化させていたこと、などがある。
一方で、スペインとの紛争は、オランダを南部低地地方(南ネーデルラント)にあった大砲生産の中心地域から切り離した。
このため、1560年から1600年までの間、イギリスが軍需物資の調達先となった。1603年(慶長八年)、あるヴェネツィアの大使は「それまでイングランドからあらゆる必需品、とりわけ大砲を賄うことができた」と書いている。
なおイギリスでは、イングランド王エリザベス1世が1574年(天正二年)に大砲の貿易に制限を課していたが、オランダへの輸出については割合簡単に免許が発行されたという。
1619年(元和五年)に、イギリス最大級の大砲鋳造所を所有していたトマス・ブラウンは、彼の生産する半数は免許を受けてオランダに輸出されていることを認めている。それは、「オランダ人が彼と売買契約して、イギリス人が買わないものはすべて引き受けることになっていたから」であった。
国産大砲の製造へ
しかし17世紀はじめになると、イギリス産業が不振におちいり、輸出にも否定的な影響が出る。ユトレヒト同盟諸州では大砲が不足し、海軍は大型艦の装備のために、町々の胸壁から大砲を外してもってこなければならなかったという。
状況に迫られたオランダ人は、自前の大砲産業の育成に乗り出す。1601年(慶長六年)、デン・ハーフ(ハーグ)のある鉄砲鍛治職人に錬鉄砲の製造認可が与えられた。他にもマーストリヒト、ユトレヒト、アムステルダム、ロッテルダムなどに大砲工場を開設された。
鋳鉄砲の製造と輸入
オランダでは青銅砲鋳造とともに、鉄製大砲の鋳造も行われた。1601年(慶長六年)および1619年(元和五年)には、イギリス方式での鉄製砲の鋳造に関する特許がオランダの住人に対して認められている。
ただ、鋳鉄砲は主に国外で製造され、オランダに移入されたらしい。1604年(慶長九年)、ドイツのヴェッツラーの西にあるアッスラーでは、主にオランダ向けの鉄製砲が鋳造されており、二重炉も稼働していた。1620年代になると、鉄製砲はウェストファリアのマルスベルクで、オランダ人によって鋳造された。
また1671年(寛文十一年)の『大砲鋳造所に関する覚書きへの追記」によれば、オランダにはスウェーデンおよびモスコヴィア(ロシア・ツァーリ国)から鋳鉄砲がやって来ていたとされる。背景には、三十年戦争の影響でドイツからの輸入ができなくなったという事情もあったといわれる。
一方でオランダにおいても鋳鉄砲の製造・開発は進められていた。1677年(延宝五年)、アムステルダムで「破裂することのない鉄の大砲」の鋳造に対する特許が認められている。
銅の輸入と青銅砲
オランダでは、青銅砲の生産はネーデルラントで続行された。そこには、自国の交易網を通して、スウェーデンおよび日本からの銅と、イギリスおよびドイツからの錫を集めることができた。
スウェーデンの銅生産および輸出は1570年(元亀元年)以降急成長し、17世紀を通じて非常に高いレベルを維持した。鉱物資源開発への資金が不足していたスウェーデンに対し、オランダは資金を提供。これによりスウェーデン産の鉄と銅の独占に成功したとされる。
また17世紀、オランダは日本産の銅の大量輸出に関わった*1。日本の赤銅はロゼッタ銅(ヨーロッパで得られる最良の銅)よりも優れているとみなされ、オランダ人はそれを青銅砲の製造にも用いたという。
日本への輸出
大坂冬の陣の最中の慶長十九年(1614)十一月、日本では徳川家康が長崎奉行・長谷川藤広から、「阿蘭陀大石火矢」12門が、まもなく渡来するとの報告を受けた(「大坂冬陣記」)。大石火矢は「おらんど」(オランダ)から直接輸入したものであり、玉の重さは「四貫目五貫目」(15〜18.5kg)もあったという(「当代記」)。当時としてはとてつもない大型砲だった。
慶長二十年(1615)二月、牧野信成が国友兵四郎らに宛てた書状によれば、この大砲は絵図を添えてオランダに注文したものだったという。信成は兵四郎らに近江国友で銃腔を研磨し、台金物をつけることを依頼している。オランダから日本への大砲輸出の早い例といえる。
兵器産業の発達と輸出拡大
オランダは「死の商人」として知られるトリップ商会*2と共同して鉄製銃器の販売を本格化させ、それが結果としてオランダの武器市場の発展を促した。武器商人はオランダの武器をデンマーク、イングランド、フランス等に販売した。
これによりオランダ国内で兵器産業が著しく発達。また武器の売却量が増加したことでスウェーデンからの銅および鉄製銃器の輸入も増大していった。
また兵器貿易が活発になった結果、アムステルダムはヨーロッパにおける武器・弾薬の主要な市場として、オランダ経済の一翼を担うようになった。
フランスの宰相リシュリュー(1585~1642)はアムステルダムに常駐の機関を置き、大量の鋳銅砲、鋳鉄砲、マスケット銃、火薬などを調達。ルイ14世の代ではコルベール(1619~83)がデン・ハーフとアムステルダムなどの都市に常駐の通商機関を置き、大砲を大量に買い付けている。