戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

アムステルダム Amsterdam

 北海とつながる内海のザイデル海(現・エイセル湖)に注ぐ、アムステル河の河口部に形成された港湾都市。16世紀後半以降、ヨーロッパ屈指の国際商業都市へと発展した。

初期のアムステルダム

 「アムステルダム」とは、アムステル河のダムを意味する。その名の通り、アムステルダムの都市としての成長は、13世紀頃に河口付近にダムが築かれたことから始まる。河口からこのダムまでが河口内港となり、ダム上の広場まで船が直接入って荷を積み降ろす事ができた。

 1257年(正嘉元年)、アムステルダムはホラント伯から関税特権を得た。14世紀初頭には「都市」として承認される。この頃には、市壁内に商人や多様な手工業職人が集住していることが当時の史料からうかがえる。

都市交易の発展

 14世紀には、都市の交易も発展をみせる。ハンザ同盟の有力都市ハンブルクの産品や交易品を、ホラント・ゼーラント・フランデレン地方へと中継した。特にハンブルク産のホップビールの取引が重要で、アムステルダムはその「ステープル(指定市場)」となった。

 同時に交易網も広がり、チーズや塩漬け魚などのホラント産品の取引を拡大させてホップビールも自らで産出するようになる。またイギリス産の未加工毛織物の輸入にも積極的であった。ハンザとの戦争にも勝利したこともあり、15世紀中ごろにはバルト海貿易を席巻するにいたる。

 それでもアムステルダムは15世紀末では都市人口が1万人程度だった。しかし1580年(天正八年)までに人口5万の北部ネーデルラント第一の都市へと成長する。その契機の一つがアントワープとの結びつきだった。海運力をアントワープに提供し、その多彩な交易品を扱うことができた。

 またアントワープハプスブルク帝国からの資本提供もあった。バルト海産の穀物イベリア半島に大量輸送し、フランスやポルトガルから塩を輸入する遠距離日常品交易も展開していった。

国際的ネットワークの移植

 16世紀後半、アムステルダムプロテスタントの改革派を奉じてハプスブルク帝国への反乱に加わる。一方で宗教面での先鋭化を嫌う商人たちによって、多様な宗教集団の共住を許す「寛容の精神」が生まれた。これにより様々な宗教・宗派の人々が集まるようになり、この中には南ネーデルラント系の商人やイベリア半島を追われたユダヤ商人たちも多数含まれていた。

 17世紀、彼らの資本と国際的ネットワークを吸収したことで、アムステルダムは世界的な規模を持つ国際貿易の中心として繁栄を極めることになる。

関連交易品

参考文献

  • 杉浦未樹 「近世アムステルダムの都市拡大と社会空間」(『港町の世界史② 港町のトポグラフィ』 青木書店 2006)

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アムステルダムの風景 from写真AC