豊後大友氏に仕えた石火矢技術者。仮名は三郎太郎。子に三郎右衛門、茂右衛門。主家滅亡後、徳川家康に召し出され、石火矢の鋳造を行った。
石火矢技術の習得
渡邊宗覚の事績は、彼の曽孫である石火矢師・渡邊主膳が天和四年(1684)に徳川家に提出した由緒書(『譜牒余禄』「貞享書上」所収)に詳しい。
私曽祖父渡邊三郎太郎儀、大友殿家来ニ而罷在候処ニ、石火矢仕并打様迠稽古仕候様ニと被申付、唐江渡、相伝仕、帰朝仕候、石火矢日本ニ而仕候儀、私祖先始ニ而御座候
石火矢師渡邊氏の祖・渡邊三郎五郎は、豊後大友氏の家来だった時期に、主家から石火矢を仕り、撃ち方まで身に付けるよう命じられた。これを受けて「唐」(中国)に渡り、技術を習得して帰朝したという。
この三郎太郎の渡唐を裏付ける史料はない。一方で豊後国においては、中国に渡って石火矢(仏郎機砲)の技術を身につけたとしても、おかしくはない環境はあった。
中国明朝の記録によると、16世紀半ば以降に大友氏は5回の遣使を行っている。特に5回目となる弘治三年(1557)、大友義鎮は「巨舟」を建造し、使僧善妙を派遣(『明世宗実録』)。使節には倭寇の頭目・王直も明朝への帰順の為に随行していた*1。
当時の倭寇は石火矢(仏郎機砲)の運用技術を保有していた。使節に同行した王直配下の毛海峰(毛烈)は、「佛狼機」(仏郎機砲)の使用に長けていたとされており、彼らが率いる倭寇集団は銅銭を材料に銃(小型〜中型の火器を意味する)を鋳造していたともされる(「海寇議」*2)。
またポルトガル人も広州の浪白澳やマカオを拠点に、中国と日本を往来していた。天正年間、大友氏はマカオを経由してポルトガルのインド副王に石火矢の提供を要請している。
徳川家康の目に止まる
大友殿崩之時分浪人仕、宗覚与申、罷在候所、早川主馬殿豊後国府内之城ニ被在候内、右之宗覚石火矢 権現様江主馬殿ゟ差上被申候得者、御上覧之上、事之外御感ニ而、唐物之様ニ見江候江共、早川主馬殿与書付候、唐ゟ申越為仕候哉と 上意ニ付、主馬殿御請被申上候者、(中略)それハ調法之者ニ而候間、御用茂被為 仰付度由ニ而、宗覚親子被 召出、御陣之時分、度々御急之御用被仰付之
文禄二年(1593)、大友義統(義鎮の子)が羽柴秀吉から改易される。主家滅亡によって渡邊三郎太郎は浪人となり、この頃に「宗覚」と号したとする。
慶長四年(1599)、豊後国府内に入部した早川長政が宗覚の石火矢を徳川家康に献上したところ、家康は「唐物之様」であると高く評価。さらに、長政から宗覚の来歴を聞いた家康は「調法之者」であるとして、戦の際などに宗覚親子を召し出しては御用を申し付けるようになったという。
石火矢の鋳造
17世紀初頭、徳川家の堺奉行が渡邊宗覚に発給した文書が「松栄神社文書」に残されている*3。年未詳六月、宗覚は堺奉行の成瀬正成と米津親勝から、石火矢鋳造について家康の「御意」があったとして早々に罷り上がるよう指示を受けた。この時正成らは、宗覚が「年寄」であるので、一人伴って参上するように言いふくめている。
七月十九日、成瀬正成からさらに書状が届く。家康から直に石火矢についての指示があるので、「遠路両人」は九月初めまでには参上して、家康に「御目見」せよというものだった。上述の由緒書には「宗覚親子被召出」とあるので、宗覚は子の三郎右衛門または茂右衛門を連れて家康の元に赴いたとみられる。
翌年五月、石火矢五梃が完成。宗覚は「飛札」でもって成瀬正成と米津親勝に報告し、両人から家康にも伝えられた。一方で宗覚は「あかかね」(銅)が不足しているので、「矢こ」(もしくは「入こ」)を3つ付属させるところを、2つの付属になるものがあるとも報告している。「矢子」(あるいは「入子」)が付属する銅製の石火矢であることから、宗覚が鋳造したのは、いわゆる仏郎機砲であったことがうかがる。
宗覚の晩年
由緒書によれば、慶長七年(1602)または慶長九年(1604)に、宗覚は豊後国葛城村(現在の大分市葛木)に100石の給地を与えられた。
その後も慶長十九年(1614)の大坂冬の陣の際は駿河に召され道具を仕上げ、夏の陣では落城後の大坂城に残り、鉄や銅を吹き集めたとされる。
家康からは「康」の字を代々受け継ぐことを許され、その後、豊後国生石村(現在の大分市駄原生石)300石の代官にも任じられた*4。
引退後、宗覚は豊後国に戻り、後継者の三郎右衛門と次男の茂右衛門は引き続き駿河に差し置かれた。文書や江戸城城門の金石文などからは、宗覚の子孫たちが以後も石火矢大工、鋳物師として活躍したことが分かっている。