戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

浯嶼 ごしょ

 中国福建・漳州湾南東部の小島の港町。ポルトガル人らが集まる密貿易拠点であったが、後に現地の海寇が引き入れた倭寇の前進基地ともなった。

絶海の要衝

 中国明朝の鄭若曽が1562年(永禄五年)に著した『籌海図編』によれば、浯嶼にはもともと水塞が設置されていた。そこは大小の険しい島々が控えた絶海にあり、月港の奸民をおさえる要衝であった。しかし、いつしか建議により浯嶼水塞は廈門に移転。その後は「番舶」(外国船)の密貿易拠点となったという(『籌海図編』巻4 福建事宜)。

 1547年(天文十六年)、仏郎機(ポルトガル)船が交易品とともに浯嶼に停泊し、漳州・泉州の商人と貿易したことが記録にみえる(崇禎『海登県志』巻5 賦役志2)。

双嶼壊滅後の密貿易拠点

 1548年(天文十七年)年四月、明朝艦隊の攻撃により浙江沖の一大密貿易拠点である双嶼が壊滅。残党は福建の浯嶼へ逃れたとされる(『籌海図編』巻5「浙江倭変紀」)。

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 同年五月、双嶼を逃れたポルトガル船団が浯嶼に来航した。この船団は大船5隻と哨戒船4隻からなり、大船には強力な仏郎機砲が搭載されていたという。九月には、双嶼の密貿易集団の頭目の一人だった許棟の船団が、温州近海で明軍の攻撃を逃れて南下し、浯嶼の密貿易拠点に合流した(『甓餘雑集』「六報閩海捷音事」)。

 ポルトガル私貿易商人のリーダーであったディオゴペレイラの船団も、インドから中国沿岸部に到達し、七月には広東方面から漳州湾の海門嶼に来航していた(「六報閩海捷音事」)。彼らも、許棟船団入港後、間もなく浯嶼に入ったとみられる。

明軍の追撃

 十月、浯嶼に集結した密貿易船団は明軍の包囲を受ける。十一月九日、明軍の攻撃が開始されたが、ポルトガル人や許棟の船団は、「大銃三十余個・中小の鳥銃」を多数放ち、山觜上から射石砲で砲撃するなどして明軍を撃退している(「六報閩海捷音事」)。

 1548年(天文十六年)末まで、ポルトガル船団は浯嶼において明軍と対峙しつづけた。その後、ディオゴペレイラは冬季の季節風によってマラッカに帰航。残った積荷を2隻のジャンクに移して、ランサロッテ・ペレイラとフェルナン・ボルジェスを船長として、浯嶼で越冬させることになった。

 翌1549年(天文十八年)正月、浯嶼に残留していたポルトガル船団は、明軍の包囲を破って、福建南端の銅山島へと南下。しかし二月十日に明軍に敗れ、ランサロッテら3名のポルトガル人のほか、16名の黒人、46名の「白黒異形、身材長大」の異民族ら多くの乗員が捕虜となった。また福建系密貿易者のリーダーであった李頭光ら112名の中国人も捕虜となっている(「六報閩海捷音事」)。

海寇の巣窟

 1550年代、浯嶼は謝策や洪廸珍、呉平ら海寇たちの拠点となり、倭寇の前進基地ともなった。1558年(永禄元年)冬、謝策と洪廸珍は倭寇を誘引し、三千人余*1で浯嶼に船泊。翌年正月に月港一帯を分掠して浯嶼に帰還したという(万暦『漳州府志』)。

 特に洪廸珍は、福建の海域に倭寇を引き込んだ張本人と明朝に認識されていた。洪廸珍は漳州出身で、倭寇頭目・王直とともに外国と密貿易を行っていた。王直の死後はその配下の倭寇を吸収し、南澳と浯嶼を拠点としたとされる(『明世宗実録』)。また1555年(弘治元年)頃から南澳を拠点に日本との密貿易を行い、巨万の富を得たともいう(康煕『海登県志』巻20 叢談志)。

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参考文献

  • 伊川健二 「16世紀前半における中国島嶼部交易の不安と安定」(鈴木英明 編 『中国社会研究叢書 21世紀「大国」の実態と展望7 東アジア海域から眺望する世界史―ネットワークと海域』 明石書店 2019)
  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)
  • 佐久間重雄 「中国嶺南海域の海寇と月港二十四将の反乱」(『日明関係史の研究』 吉川弘文館 1992)

漳州府図 籌海図編4(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:乾隆『海登県志』巻18寇乱の条は、ほぼ同内容だが、人数は二千人余としている。