戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

大福船 だいふくせん

 16世紀、中国明朝の福建地方で造られた尖底の大型ジャンク船。小型艦船を圧倒する戦闘力を有したという。明軍だけでなく、中国福建の密貿易商人たちも用いており、日本人が買い入れていた可能性もある。

福建の大型軍船

 16世紀中頃に倭寇対策に参与した中国明朝の鄭若曽は、福建の大型軍船である「大福船」について、以下のように記している(『籌海図編』)。

福船は高大なること楼の如く、百人を容る可し。その底は尖り、その上は闊(ひろ)し。〔中略〕㭦楼三重を上に設け、その傍らは皆な護板にして、裼(かさね)るに茅竹を以てし、竪立すること垣の如し。その帆桅は二道にして、中は四層たり。〔後略〕

 大福船は100人を収容する尖底の大型船であり、デッキには高く障壁をめぐらし、二本マストでキャビンは四重であったという。

 また別箇所では、大福船が「高大」である利点として、敵は「矢石・火炮」を仰ぎ見る角度からしか発射できないとしている。この為、小さい船舶に対し圧倒的なアドバンテージを有しており、「誠に海戦之利器也」と断言されている。一方で小回りはきかず、吃水が深いために岸近くで停泊する事は出来なかったらしい。

朝鮮近海に現れた「荒唐大船」

 1544年(天文十三年)六月二十二日、朝鮮の忠清道・藍浦の近海に「荒唐大船」*11隻が出現。船の乗員の中心は中国福建の密貿易商人であり、銀貿易の為に日本に向かう途中、嵐にあって漂着していた。

 この「荒唐大船」について、朝鮮側の記録には「双帆を掛張し」「高大なる一船、双檣に旗を懸け」などの描写があることから、二本マストの大型船であったことが分かる。また朝鮮水軍の「火炮・弓箭」に対しては、「唐人は外に防牌を設け」て、つまり障壁をめぐらせて攻撃を防いでいる(『中宗実録』)。朝鮮水軍を圧倒する「火炮」(仏郎機砲か)も搭載されていた。

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 同年九月八日、朝鮮王朝の判中枢府事・宋欽は、上疏の中で以下のように述べている(『中宗実録』)。

その船は堅緻なること異常にして、四面には皆な板を以って屋を為(つく)り、又たその中は寛闊にして、百余人を容るべし、その他の器械も、一として整わざるは無し。

 デッキの四面に板をめぐらして楼屋をつくり、100人以上を収容できると描写している。これらのことから、1544年(天文十三年)に朝鮮近海に現れた「荒唐大船」は、大福船に類似する二本マストの大型船であったとみなすことができる。

 「荒唐大船」は、八月まで朝鮮近海に留まり、食料や水を調達した後、姿を消した。当初の目的地である日本に向かったと推定される。

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日本人による船舶買い入れ

 鄭若曽が編纂した『籌海図編』の「福建事宜」には、「倭人」(日本人)が福建にやって来て、現地の「福人」から「舟」を買っていることが記されている。同じく『籌海図編』の「経略二」「開互市」には、「日本夷商」が「尖底船」を買っているとの記述がある。

 さらに「倭般」条でも、倭人が福建沿海の奸民から船を買い、外海で重底に「貼造」した上で、渡航して来るとする。その船は「底尖」で走波性に優れ、風に強く、数日の航海で到着できるのだという。

 日本人が福建で現地人から買い入れた船種は、尖底の大型船である大福船、または『籌海図編』で小型の福船と紹介される「草撇船」であったかもしれない。

参考文献

  • 太田弘毅 『倭寇―商業・軍事史的研究』  春風社 2002
  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)

大福船 籌海図編18(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:荒唐船は、倭船か唐船かが不明瞭な海賊船を指す朝鮮側の呼称。