戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

楊 三 ようさん

 広東虎門出身の中国人。クリスチャンで、洗礼名はペドロ。東南アジアに密航した後、ポルトガル船の船員として広州に来航した。火薬や大砲の製法に通じ、明朝の仏郎機砲導入に大きな役割を果たした。

仏郎機砲の鋳造

 1517年(永正十四年)、ポルトガル船団が明朝との通交を求めて広州湾に来航した。1520年(永正十七年)、ポルトガル船などの停泊地であった屯門付近を管轄する東莞県巡使・何儒は、関税徴収の為にポルトガル船を訪問。この時、長年ポルトガル人とともにあり、造船や銃(砲)・火薬の製法を熟知しているという楊三、戴明という2人の中国人と会った。

 翌1521年(大永元年)、広東海道副使としてポルトガル船団への対応にあたっていた汪鋐は、何儒を通じて楊三らと接触。多額の賞金を示された楊三らは、寝返りを約束し、何儒が密かに用意した小船でポルトガル船から出て、汪鋐のもとで仏郎機砲を鋳造した。

 1522年(大永二年)、汪鋐はこの仏郎機砲を活用して、西草湾の海戦でポルトガル船団を破る。海戦後、楊三は何儒に連れられ、ポルトガル船から捕獲した仏郎機砲4門を梧州の両広総督を通じて朝廷に献上している。

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ポルトガル人の書簡

 仏郎機砲が明朝へ伝来した経緯について、ポルトガル側にも史料が残されている。1521年(大永元年)、ポルトガル人ヴァスコ・カルボは、兄のディオゴ・カルボの率いる貿易船によって広州湾に来航したが、明朝の貿易禁止令を無視したため、当局に逮捕・投獄されてしまった。1524年(大永四年)末頃、ヴァスコ・カルボは獄中から密かに書簡を送っている。

 この書簡によれば、ディオゴ・カルボの船には、ペドロという名の中国人クリスチャンが妻とともに乗っていた。彼は(ポルトガル船追放の)騒動により、故郷であった虎門に戻って身を潜めていたが、中国高官に保護された。そこでペドロは、ポルトガル人がマラッカやコチンで持っている武力を全て知っていると語り、火薬・大砲・ガレー船の製造法も知っていると述べたという。

 中国史料と異なる部分があるが、中国人クリスチャンのペドロとは、楊三を指している可能性が高い。楊三=ペドロは、広東の虎門出身で、東南アジア(おそらくマラッカ)に密航してポルトガル船の船員となったのだろう。インドのコチンにも、滞在したことがあったのかもしれない。

 ヴァスコの書簡には、さらに楊三=ペドロの活動が記されている。楊三=ペドロは、広州でガレー船を2隻建造したが、中国の高官の評価を得られず、以後の造船計画は中止された。しかし火薬・大砲の知識は認められ、皇帝のもとに送られて、禄を給付される身分を得た。北京ではマラッカの情報を伝えるとともに、大砲の製造を行ったという。

ポルトガル船の中国人

 ポルトガル船の広州湾来航時、広東按察司僉事であった顧応祥は、仏郎機砲の伝来過程について「時に海寇を征するに因りて、通事は銃式一個、并びに火薬の方を献ず」と伝えている(『籌海図編』)。この「通事」(通訳)も、楊三らを指すのだろう。

 16世紀初頭に中国に来航したポルトガル船には、このように広東や福建から海禁を破って、東南アジアに渡航した中国人が同乗していた。彼らは時に「通事」(通訳)としてポルトガル人と中国人の仲介を行い、また関税徴収にあたる広東当局の官吏との交渉も担っていたとみられる。楊三=ペドロも、おそらくこうした中国人の一人であったと考えられる。

参考文献

  • 中島楽章 「銃筒から仏郎機銃へ―十四~十六世紀の東アジア海域と火器ー」(『史淵』巻148 九州大学文学部 2011)

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マレーシア マラッカ サンチャゴ砦の大砲 from 写真AC