戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

稽天 けいてん

 薩摩国薩摩郡東郷(現在の鹿児島県薩摩川内市東郷町)出身の日本人海商。東郷の国人領主・東郷氏の被官か。1548年(天文十七年)三月に貿易のために双嶼に向かうも、明軍に拿捕された。彼の供述により、日本人が中国での密貿易に関わる経緯の一端が明らかになっている。

福州人の来航

 1543年(天文十二年)頃、中国の福州出身の林陸観(別の史料では林爛四とも)が日本の薩摩国に来航。しかし船が難破し、3年間留まっていた。そこで稽天の主君(東郷の国人領主・東郷氏か)が、林に米銭を貸与するとともに銀5貫を与えて船を造らせ、1547年(天文十六年)に中国に向かわせた。

 このとき稽天の五子も同乗。六月、浙江省沖の密貿易拠点・双嶼において交易を行い、銀6貫260目を回収し、林ら中国人とともに帰還した(『甓餘雑集』)。

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双嶼に向かう

 林らは現地の「国王」(東郷氏か)に「我が大明は売買甚だ好し」と説いた。これを受けて「国王」は、稽天等に銀5貫文(300両)を貸与し、船1隻を建造したうえ、「番銃二架」や番弓、番箭、倭刀(日本刀)、藤牌、長槍、鏢槍などの武器を供与した(『甓餘雑集』)。

 1548年(天文十七年)三月、東郷出身の稽天・新四郎・芝燗らは、林を船主とする新造船に同乗して京泊港から出航。しかし四月二日、双嶼南方の九三の海島において、双嶼攻撃に向かっていた明朝海軍に攻撃され、船は拿捕されてしまう。この時、芝燗と稽天の三子が戦死。稽天と新四郎は、林等中国人密貿易者53名とともに明軍の捕虜となった(『甓餘雑集』)。

 兵船を率いた明将・盧鏜の報告によれば、船は全長約28メートル、幅は約7.5メートルという大船であった。大仏狼機銃2門を搭載しており、他にも銅銃3挺、鉄銃1挺、藤牌20面、大小の倭刀14把、大小の長槍35根を装備していた(『甓餘雑集』)。稽天の主君(東郷氏か)が、稽天らに渡した「番銃」とは仏郎機砲だったことが分かる*1。銅銃・鉄銃は、伝統的な鉄筒と推定されている。

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稽天の供述

 捕虜となった稽天・新四郎の身柄は、浙江海道副使の魏一恭のもとに送られ、訊問が行われた。ただし稽天の供述には疑問点もあったらしく、紹興府知府の沈啓により、日本語が堪能で、かつて双嶼で稽天にあったことがあるという中国人を通訳として、再度の訊問が行われた。これら訊問により、稽天らの出身および日本から双嶼に向かった経緯が明らかとなっている。

 なお稽天は、下記のような供述も行なっている。

向来(かつて)は倭人の上国に過(いた)るは有るなし。今に至りては船船に倶に各々本国の人有りて、前来して販番す。尚百数の倭人有りて、後来の船に在るも未だ到らず。

 かつては日本人が明朝に渡ることはなかった。しかし今では日本から双嶼に向かう船には、つねに日本人が乗り込む。さらに百数十人の日本人が、後続の船に乗って双嶼に向かっている、としてきる(『甓餘雑集』)。

 1548年(天文十七年)五月二日、陳瑞という密貿易船の船員が、明軍に捕縛された。陳瑞は、自分が日本から乗ってきた船には日本人20人が乗っていたと述べており(『甓餘雑集』)、稽天の供述を裏付けている。

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参考文献

  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)

仏狼機 籌海図編19(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:仏郎機砲は、薩摩東郷氏が交易活動を通じて中国海商かポルトガル人を入手したものとみられる。ただし日本に来航したヨーロッパ人から海賊が奪った武器が、東郷氏の手に渡っていた可能性もある。