戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

トリスタン・デ・ガ Tristão de Gá

 中国浙江沖の双嶼を拠点としたポルトガル人海商。16世紀初頭、ポルトガルのインド副王に従い、インドで活動していた。後に双嶼に拠点を移し、中国や東南アジア海域での貿易に従事して財をなした。

インド・チャウルの戦い

 トリスタン・デ・ガは、ポルトガルのインド副王として1505年(永正二年)から赴任したフランシスコ・デ・アルメイダ の子ロウレンソ・デ・アルメイダの養育係であったと伝えられる(メンデス・ピント『東洋遍歴記』)。

 ロウレンソは父のもとで艦隊指揮官として軍事活動に従事していた。しかし1508年(永正五年)、ロウレンソが率いたポルトガル艦隊は、アミール・フセイン・アル=クルディ(ミール・ホセン)率いるマムルーク朝艦隊とマリーク・アヤース率いるグジャラート艦隊の攻撃を受けて敗北。ロウレンソは砲弾に当たり戦死してしまう。

 トリスタン・デ・ガは、ロウレンソと同じ旗艦に乗船していたが、生き残って捕虜となった*1。トリスタンはグジャラート王国の内陸に移送されるが*2、その途中でフランシスコ・デ・アルメイダが派遣してきた行者(ジョゲ)に密書を託し、ロウレンソの死や捕虜の名前を伝えている(バロス『アジア史』)。

 1509年(永正六年)、ポルトガル艦隊がディウ沖の海戦でマムルーク朝グジャラート王国の艦隊を破る。これによりディウの領主であったマリーク・アヤースはフランシスコ・デ・アルメイダに服従。トリスタンを含む前年の捕虜全員(17名)が解放され、アルメイダのもとに送られた(『アジア史』)。

インド副王の使者

 1512年(永正九年)頃、トリスタン・デ・ガは当時インド副王となっていたアフォンソ・デ・アルブケルケの名代として、グジャラート王国のムザファル・シャー2世のもとに派遣されている。目的はディウへの要塞と商館の造営交渉であり、王はこれを許可した*3(『アジア史』)。

 なお、トリスタンがグジャラート王国を離れる時期、同国は隣国を攻める為に国境に陣を構えていた。バロスは著書『アジア史』に、この軍勢を見たトリスタンがグジャラート王国の威勢と勢力の大きさを悟ったとするエピソードを記している。

双嶼の有力者

 その後、トリスタンは中国の沿岸部に拠点を移す。フェルナン・メンデス・ピントは著書『東洋遍歴記』の中で双嶼(リャンポー)には4人のポルトガル人の顔役がいたと記しており、その一人がトリスタン・デ・ガだった。他の3名はマテウス・デ・ブリト、ジェロニモ・ド・レゴ、ランサロッテ・ペレイラであった。

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 さらにピントは、双嶼におけるトリスタンとジェロニモ・ド・レゴの両名について、「富裕な老人」と表現している。

 双嶼がポルトガル人の拠点であった時期は1540年(天文九年)から1548年(天文十七年)であることから、トリスタンはインド時代を含めて約40年に渡りアジア海域で活動していたことになる。ピントが出会った当時のトリスタンは、実際に高齢の人物であったと推定される。

 「富裕な老人」トリスタン・デ・ガは、私貿易集団を率いて海域を往来していたらしい。ピントは双嶼からトリスタンのナウ船に乗り、無事に東南アジアのマラッカに到着したことを記している。

 またピントがマレー半島のケダ王国からマラッカに向かった際にも、トリスタンが船主兼船長をつとめるナウ船に出会っている*4。トリスタンはピントに錨索や水夫、兵士、水先案内人を提供し、さらに他の船とともにマラッカまで彼を護衛したという。

参考文献

アジア図(メルカトール・ホンディウス) 
出典:古地図コレクション(https://kochizu.gsi.go.jp/
※マラッカ(Malaca)周辺を切り取り加工しています

*1:ジョアン・デ・バロスは著書『アジア史』において、主だった捕虜の一人として彼の名を挙げている。

*2:トリスタン・デ・ガとともにバスティアン・ロイスという人物も荷車に乗せられて移送されていた。バスティアン・ロイスも『アジア史』で主だった捕虜の一人として挙げられており、後にリスボン造幣局の計量官となったとしている。

*3:グジャラート王国内ではマリーク・アヤースが反対していたとことを、トリスタンはアルブケルケに報告している。

*4:この時、トリスタンの船はペグーから来ていた。