戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

フェルナン・メンデス・ピント Fernam Mendez Pinto

 東南アジア・東アジアで活躍したポルトガル人海商。後にイエズス会士となる。ポルトガルへ帰国後、自身の「体験」をまとめた『東洋遍歴記』を著した。

生い立ち

 生年は1514年(永正十一年)*1。『東洋遍歴記』では、自身がポルトガルの大学都市コインブラに近いモンテモール・オ・ベーリョ出身であると記している*2

 1521年(大永元年)に叔父に連れられてリスボンへ移った。船員や貴族の使用人として働いた後、1537年(天文六年)3月11日にインドへ向かう5隻の艦隊に乗り組んでリスボンを出港したという。1537年(天文六年)から1539年(天文八年)までインド方面で従軍し、1539年にマラッカ長官ペロ・デ・ファリアに随行してマラッカへ到着した。

東アジアでの交易

 その後、1540年(天文九年)から1554年(天文二十三年)までの間、インドのマラバール海岸、マラッカを拠点とし、日本および中国沿岸部を含む東アジア海域での交易に従事した。

 『東洋遍歴記』には、自身以外の体験の記述も含まれるため、ピント本人の活動は分かりにくい。しかし、中国浙江沖の一大密貿易港であるリャンポー(双嶼)の集落について詳細に描写しているため、同港に出入りしていた可能性は高いという。

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 また日本にも複数回渡航している。1551年(天文二十年)にドゥアルテ・ダ・ガマの船で日本に行った際、布教活動中のフランシスコ・ザビエルと遭遇。ザビエルは書簡の中でピントについてふれ、山口でのイエズス会カーザ(修院)建設のために300クルザードを貸す「裕福な人物」であったと記している。

イエズス会への入会

 1554年(天文二十三年)、ピントはゴアにおいてイエズス会への入会を決意。7000ドゥカドの財産のうち、2000ドゥカドを本国の家族に送り、残りをイエズス会に寄進した。1554年12月23日、イエズス会修道士アイレス・ブランダオンは、ピントについて「インドで最も金を蓄えた者の一人」であり、「多くの奴隷を所有」していたと書簡に記している*3

 同年、ピントはイエズス会司祭ベルショール・ヌネス・バレト率いる日本渡航グループに参加。その際、日本の領主たちは自分の友人であり、自身の財産の残り5000ドゥカドは豊後領主(大友宗麟)を含む複数の日本の領主改修を目的としたインド副王使節の準備(贈り物の購入、旅費、旅装購入費)と豊後と山口での教会建設費に充てるとし、自ら大使に志願したという。

 日本への途中、マラッカで長官から中国渡航用のカラヴェラ船が提供されたが、その艤装費用800クルザードをピントとその船の船長コスメ・ロドリゲスが捻出した。8月、ピントを含むバレト一行は中国沿岸のランパカウ(浪白澳)に到着し、この地で越冬。翌年6月に豊後府内に向けて出航した。

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ポルトガルへの帰国

 1558年(永禄元年)2月17日、ピントはゴアに帰還するが、ここでイエズス会を脱会。同年9月22日にリスボンへ帰着した。その後、イエズス会に対する奉仕や、インド副王派遣大使としての日本での働きを理由に、宮廷に年金支給を願い出たが受理されなかった。

 帰国後は、リスボン港を対岸にみるアルマダの町に住み、アジアでの自らの体験と伝聞をもとに『東洋遍歴記』を執筆。また晩年に、東洋におけるイエズス会布教史編纂に携わっていたピエトロ・マッフェイに自らの経験と見聞を語っている。このためマッフェイの著作は『東洋遍歴記』の記述に重なる部分があるという。

 ピントは1583年(天正十一年)7月8日に没した。『東洋遍歴記』は彼の死後、30年ほど経過した1614年(慶長十九年)に出版された。

参考文献

インドのゴアのボン・ジェズ教会 from 写真AC

*1:1514年は、イエズス会士であった頃の自筆書簡からの計算による。『東洋遍歴記』の記述から計算すると1509〜11年の間となる。

*2:同時代のイエズス会報告でも裏付けられるという。

*3:ピントの奴隷はイエズス会入会時に解放されたが、うち3人はピントと行動することを望み、解放されて後もイエズス会士らの従僕として日本まで同行した。