戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

マスカット Muscat

 アラビア半島東端に位置する港町。現在のオマーン国の首都。ペルシア湾の入口に位置し、ペルシア湾アラビア海、インドなどを結節する海上交通の要衝。16世紀にポルトガルの拠点となり、後にヤアーリバ朝やブーサイード朝の下、インド洋海域における交易の一大中心地となる。

ポルトガル人来航以前

 1347年(貞和三年)4月、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータは、インド西岸のカーリクートからインド洋を船で渡って南アラビアのザファーリに至る。そこから別の船で北上し、マスカットを訪れている。バットゥータはマスカットについて、規模の小さな町であり、「クルブ・アルマース」*1と呼ばれる魚が豊富にいると記述している(『大旅行記』)。

 当時栄えていた港は、マスカット南東にあるカルハートであった。バットゥータもカルハートについて、「素晴らしいいくつもの市場と数あるモスクの中でもとりわけて一番に華麗なモスクがある」としている。

 また16世紀初頭のポルトガル人来航時、マスカット周辺を支配していたホルムズ王は、マスカットでは在地有力者を総督に任命するにすぎなかったが、カルハートには王国貴族を総督として派遣していた。ジョアン・デ・バロスの『アジア史』によれば、1515年(永正十二年)頃のマスカットの収入は、カルハートの約三分の一、ジュルファールの約半分にとどまっていたという。

16世紀のマスカットの絵図

 1507年(永正四年)、アフォンソ・デ・アルブケルケ率いるポルトガル艦隊がマスカットを占領する。しかし当初ポルトガル人はペルシア湾での主要拠点をホルムズ島に置いており、マスカットには在地有力者を介した間接統治を行うのみだった。

 1554年(天文二十三年)、マスカット沖でスィーディー・アリー・レイス率いるオスマン朝艦隊とフェルナンド・デ・メネゼス率いるポルトガル艦隊の海戦が起こる。リズアルテ・デ・アブレウ著『リズアルテ・デ・アブレウの書』所収の絵図には、この海戦の様子とともにマスカットの町が描かれているが、マスカットには防備のための小さな砦が一つ存在するのみだった。

 砦の横にモスクが確認できるが、後の時代の絵図で確認される教会はない。宗教儀礼に必須の教会が建設されるほど、ポルトガル人定住者がいなかったことがうかがえる。

城砦の増設と教会

 16世紀のマスカットは、たびたびオスマン朝の攻撃を受けた。最初の襲撃は1546年(天文十五年)にあった。1552年(天文二十一年)にはピーリー・レイス率いる艦隊がマスカットを占領し、ホルムズ島攻撃に向かうまでの短期間、駐留した。

 1581年(天正九年)、アリー・ベイ率いるオスマン朝部隊が上陸して略奪におよぶ。これ以降、防御を固めて再度の占領を許さないよう、マスカットに城砦建設や防衛を司どる司令官が配置され、城砦建設が開始された。

 1610年(慶長十五年)頃に作成されたマスカットの絵図*2には、教会と大規模な城砦が描かれている。教会の存在は、軍属を中心とするポルトガル人定住者や訪問者増加が背景にあるとみられる。

 しかし、町の規模は依然小さかった。1602年(慶長七年)にマスカットを訪れたアントニオ・デ・ゴウヴェイアは、「マスカットは極小で貧しく、その住民は、私がこれまで訪れた地で目にした人々の中でも最も貧しいと断言することができる」と述べている。

急速な都市化

 1622年(元和八年)、イギリス東インド会社の協力を得たペルシアのサファヴィー朝によってホルムズ島が占領される。これにより、マスカットがペルシア湾においてのポルトガル人の新たな主要拠点となった。多数の船が同時に入港できる湾を有し、その周囲が高地に囲まれていることから要塞としても地形的有利があったといわれる。

 あわせて、ホルムズ島の代替として都市内部の整備も図られた。1624年(寛永元年)、税関が市街地中心部の海岸近くに建設された。これは、マスカットがホルムズ島に代わってペルシア湾一帯の関税徴収および管理の中心地となったことを象徴する。

 また1630年(寛永七年)頃、修道院の建設が完了。この修道院は単に宗教儀礼上の機能のみならず、病院とあわせて医療機能も果たしていた。ペルシア湾周辺一帯での傷病兵の治療が重要であった為という。

 防御施設の増強も進められた。1635年(寛永十二年)頃に作成されたマスカットの絵図*3には、1610年絵図にみえる砦だけでなく、海側のボイケラン砦や聖アントニオ砦、内陸部の城壁、城壁の外の見張り塔が描かれている。

 海側の防備が特に強化されたのは1620年代で、これはイギリスやオランダの東インド会社サファヴィー朝の侵攻が危惧された為であったとされる。一方で、1630年代には内陸側の防備が増強が図られたことが史料からうかがえる。背景にはオマーン内陸部で成立したヤアーリバ朝の沿岸部進出があったと推測されている。

ポルトガルによる通商支配

 オマーンは海洋通商活動の長い歴史を持っていた。しかしマスカットをはじめ、スール、ソハール、クラヤートなど、遠洋航海が可能な船を係留することができた港が、すべてポルトガル支配下に置かれたことで、厳しい規制下に置かれた。

 ポルトガル船が米、デーツ(ナツメヤシ)、馬などの輸送を行う一方で、オマーン船やインド船など現地人の保有した船は、積荷の内容制限を受けたうえ、マスカットで通行許可証の発給を受け、関税を支払わなければならなかった。

 1611年(慶長十六年)11月にマスカットのポルトガル人司令官がバルーチー(パキスタンのバルチスターン地方の住民)の船長に発給した許可証が残されている。その許可証には、船の大きさや船長の名前、宗教、人種、居住地、年令が記され、マスカットを出航し、スハール、ディウ、チャウルなどに寄港すること、さらに携帯する武器の種類と量が細かく記入されている。積荷については乾葡萄やデーツなどが記され、運んではいけないものとして、綱、鉄、鉛、煙草、生姜、シナモンやその他規則で定めるものと記されている。

 ポルトガルが、現地人の船の管理と、剣や銃などの武器およびその原料への規制を、厳しく行なっていたことがうかがえる。

ヤアーリバ朝の進出

 1624年(寛永元年)頃、ヤアーリバ朝のナーシル・ブン・ムルシドは地方政権が割拠していたオマーン内陸部を統一。1643年(寛永二十年)11月、ナーシルはポルトガル支配下にあった海岸部のスハールを奪取し、1648年(慶安元年)までにはスール、クラヤートも占領した。

 さらにナーシルは1648年(慶安元年)8月、マスカットを攻撃して約2ヶ月半にわたり包囲。ポルトガルはヤアーリバ朝との講和を余儀なくされ、オマーン艦隊が臨検を受けることなく海外に行くことや、ヤアーリバ朝イマーム(指導者)の臣民に対するマスカットでの免税および交易の自由などを認めている。

 マスカットはオマーンでのポルトガル最後の拠点となっていたが、1650年(慶安三年)1月、ヤアーリバ朝のスルタン・ブン・サイフ1世の時についに陥落する。ポルトガル人支配期に造られた建築物は、ヤアーリバ朝治下でも引き続き使用され、特にマスカット湾岸の城砦は現在まで残っている。このほかにも、税関はそのまま税関として、修道院は各王朝の君主や総督の住居として、また教会は倉庫などとして使用され続け、20世紀初頭まで存在していた。

 ただ、ヤアーリバ朝とポルトガルの抗争は、以後もインド洋を舞台に長期間に渡って続いた。1652年(承応元年)、オマーン艦隊がポルトガル支配下にあったアフリカ東海岸ザンジバル島を攻撃。同年、インドのゴアを発ったポルトガル艦隊もマスカットを襲撃している。1655年(明暦元年)には、オマーン艦隊は東アフリカにおけるポルトガルの拠点モンバサを攻撃し、5年間の要塞包囲戦の末にモンバサを占領した。

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 1673年(延宝元年)9月、ポルトガル艦隊がマスカットを攻撃。同年12月、報復に出たオマーン武装商船が、インド西岸のディウ近くで穀物を輸送していたポルトガル艦隊を襲撃して大部分を拿捕し破壊した。

 両者の抗争は、ポルトガルオマーン周辺海域からその勢力を失う1739年(元文四年)頃まで続いた。

海洋帝国の拠点

 オマーンはもともと海外に輸出できるような産物や製品が少なかった。19世紀初めにオマーンの各地を旅行したウェルステッドは、「マスカットで生産され輸出されるものは僅かしかなく、それらはデーツ、深紅色の染料、フカのヒレ、塩漬けの魚である」としている。この為、ヤアーリバ朝初期の通商活動は、米をはじめとした食料と武器の輸入と、デーツ(ナツメヤシ)などのオマーン産品の輸出が中心であった。

 その後、ヤアーリバ朝は積極的な通商活動を展開する。イブン・ルザイクの記述によれば、スルタンはインド、サンアー、バスラ、イラクへ人を送り、馬や武器やその他をオマーンへもたらしたという。1677年(延宝五年)にマスカットを訪れたフライアーは、マスカットにはモカやカイロより商人が来航し、マスカットは薬種や馬を売り、インドの商品に対しては黄金で支払いをすると述べている。スルタンの治世に、インド、ペルシャ湾岸、紅海沿岸地方との間での通商活動が行われていたことがうかがえる。

 18世紀になるとマスカットの交易は中継貿易が主体となる。ハミルトンは、1715年(正徳五年)頃のマスカットの輸出品は馬、コーヒー、硫黄、深紅色染料、粗悪な布であるとする。翌1716年に同じくマスカットを訪れたコーンウォールは、輸出は薬種、硫黄、カーペット、馬であり、オマーンモザンビークへ毎年艦隊を送り象牙を持ってくるが、その象牙は再輸出されたものとしている。

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 当時マスカット船が運んだ商品の中でも重要なものであったコーヒーは、イエメンかもしくはソマリア地方からもたらされたものであるとみられる*4。また輸出品のうち、布地はインドから、薬種の大部分はインドやペルシアから、硫黄やカーペットはペルシアから輸入したものと推定されている。

参考文献

  • 大矢純 「港市マスカットとポルトガル人ー絵図に見る一六ー一七世紀の植民都市」(守川知子 編 『都市からひもとく西アジア 歴史・社会・文化』 勉誠出版 2021)
  • 福田安志 「ヤアーリバ朝における通商活動とイマーム」 (『オリエント』34ー2 1991)

マスカットの歴史的中心部 ballerinaによるPixabayからの画像

*1:モルディヴ諸島の言葉では「カル・ビリ・マス」、「クンマラ・マス」と呼ばれる「鰹節」。『大旅行記』によれば、モルディヴでは獲った魚(鰹)を切り身にして、煙で燻して乾燥させるとする。この「鰹節」は現地の食用だけでなく、インドや中国、イエメンに輸出されたとしている。

*2:この絵図は、マヌエル・ゴディーニョ・デ・エレディア著『ポルトガルの征服地絵図集』に所収されている。

*3:アントニオ・ボカッロ著『東インドの全城砦、都市および居住地の絵図総覧』に所収されている。

*4:1685年(貞享二年)、マスカットの4隻の船が、紅海の出口のバーブ・アル・マンダブ海峡でモカの商船を待ち伏せて攻撃を加えようとしたことが記録されている。当時、モカなどの紅海沿岸の港から、バスラなどのペルシア湾沿岸の港へ向けてコーヒーの輸出が行われ、コーヒーはバスラからさらにシリアやイスタンブールへと運ばれた。オマーンはこのコーヒー交易の支配権を獲得していく。