戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

グレートジンバブウェ Great Zimbabwe

 東南アフリカに栄えたグレートジンバブウェ*1国の王都。サビ川の支流ルンデ・ムトゥリクウェ川の上流地域でジンバブウェ高原の南縁に位置する。グレートジンバブウェの丘や、その南麓のグレートエンクロージャーなどの遺跡群等から往時の繁栄が知られる。

グレートジンバブウェ国の台頭

 考古証拠によれば、11世紀にはグレートジンバブウェの丘の西側に集落があった。13世紀中頃までには人口が増加し、南のリンポポ川中流域の都市・マプングブウェのような石の壁が建築された。

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 発展の背景の一つに貿易ルートの移動があるといわれる。新しいサビ川ルートは、ジンバブウェ高原南西部の産金地帯とインド洋を一直線で結ぶものであり、グレートジンバブウェはちょうどその「中点」に位置する。また農業や牧畜にも適した環境だったともされる。

 最盛期は14世紀と考えられている。後述のグレートエンクロージャーを含めて主要な建物は、この時期に築かれた。遺跡のある都市の中枢と、その周囲を含めた都市全体としては、最盛期で家屋数約6000、人口約1万8000人を擁したと推定されている。

グレートジンバブウェ遺跡

 グレートジンバブウェ遺跡は、石の壁をもつ遺構群からなる。壁はいずれも花崗岩の方形ブロックを、モルタルを使わずに空積みすることによって建築され、ふつう塀のように、それ自身で立っている。大半は円を囲い、エンクロージャー(囲壁)を作り出している。

 遺跡は、三つの部分に分けられる。一つは丘の遺跡群(ヒルコンプレックス)で、高さ80メートルの鯨の背タイプの花崗岩の丘の上にあり、互いに連結する複数のエンクロージャーからできている。

 第二の部分は、丘の南側の麓、丘から700メートルほど離れた、いくぶん高台になった場所にあるグレートエンクロージャーである。神殿とか、楕円形建物と呼ばれることもある。外壁は周囲240メートル、最大部の高さは11メートル、基部の厚みは6メートル。建築全体に使用されたブロックの数は約100万個と推定されている。

 外壁の一部は内側に平行な壁をもち、両者で狭い「平行通路」を形成している。通路の終わりには、高さ13メートルほどの石積みでできた「円錐の塔」がそびえている。また、様々な壁や小さなエンクロージャーがグレートエンクロージャーの内部空間を分割している。

 第三の部分は、「谷の遺跡」と呼ばれ、丘とグレートエンクロージャーの間の低地にある。ここでは、やや小規模な石の壁があちことに向かってのび、多数の複雑に仕切られたエンクロージャーと通路が作られている。

壁の内と外

 首長(王)は、丘の上に住み、そこで政治・宗教活動を司ったとみられる。「丘の遺跡」からは、金や滑石の盆、儀礼用の青銅の槍先、祭祀用の品々*2が見つかっている。首長の妻子や親族の生活空間は、麓の「谷の遺跡」やグレートエンクロージャーにあった。

 一方で、一般民は「壁の外」で生活を営んだ。彼らの小さな草葺きの家の跡が、丘を取り囲む谷あい、特にその西側において、多数確認されている。畑や遊牧地は町からかなり離れていたと推定されているので、人々は家と農地を毎日、あるいは定期的に往来して農事に携わったと考えられている。

遠隔地交易と産業

 遺跡からの出土品に、十字形の銅を作るための滑石製鋳型がある。十字形の銅は、ザンベジ川中流とその北の地域で、交換手段として広く流布していた一種の通貨であった。また出土品の一つである二股の鉄製ゴングは、中央アフリカや西アフリカにおいて神聖王のシンボルとされている。グレートジンバブウェ国が、アフリカ内陸部の遠隔地と交渉していたことを示すとされる。

 大量の鉄屑や各種銅製品、綿布の生産のための石錘、鍬、斧、鉄の足輪、重さ数キロの銅線等も見つかっている。石工や鍛治師、鋳物師、織物師などが都市で活動していたことが考えられる。

 インド洋交易に関わる品も発見されている。ペルシア製のボウルや、明朝時代の中国製陶器、西アジア渡来のガラス、大量のガラスビーズ、象牙、金細工、金ビーズ、鉄製スプーン、キルワ金貨等も出土している。金や象牙の中継貿易により、インド洋各地の品々が、グレートジンバブウェにもたらされていたことがうかがえる。

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ポルトガル人バロスの記述

 インドやペルシア、中国からの遺品から推定されるグレートジンバブウェの都市としての下限は、16世紀初頭前後とみられている。

 この頃、東南アフリカにはポルトガル勢力が到達していた。ポルトガル人のジョアン・デ・バロスは著書『アジア史』の中でグレートジンバブウェを思わせる記述をしている。

 (東南アフリカ内陸の)トロアという地方にもう一つの金鉱があるといわれている。(中略)王国の領土は先述の広大な平原に接している。その他の金鉱は地域で最古の歴史をもつもので、平原のなかにある。

 平原の中央には内外とも驚嘆すべき大きさの、四角い石造りの砦が建っている。石を固めるためのモルタルは使われていないようである。壁の厚みは25スパン(約5メートル60センチ)以上もあり、高さは厚さに比べれば、さして巨大であるとはいえない。

 この大建築物の門の上に碑文が書かれているが、そこを訪れる、学問の素養があるムーア商人(ムスリム商人)にも、碑文は読むどころか、そもそもいかなる言語なのか分からない。

 この建物の周辺はほとんど丘によって囲まれ、丘の上にまた別のよく似た建築物が建っている。こちらもモルタル無しの石積みで造られている。建物の一つは、高さが12ファザム(約21メートル強)以上もある石の塔だと伝えられる。

 土地の原住民はこれらの石造建築をジンバオエと呼ぶ。彼らの言語で、宮廷という意味である。ベノモタパの居る建物は、すべてそう呼ばれる。

 (中略)この石造建築はソファらから西へ、直線距離で測っても約170リーグ(約820キロメートル)も離れている。緯度にすれば、南緯20度から21度の間にある。ムーア人の考えでは、石造建築は相当いにしえのものであり、かつては金鉱を守護する目的で建設されたということである。廃鉱になったのは、戦乱のためだという。

 バロスの描写は、実態と異なる箇所があるものの、トロア国に近い草原の地、古くからの金生産とのかかわり、ソファラからの距離や緯度などグレートジンバブウェについて言及している可能性が高い。

 一方で、16世紀にポルトガル人は東南アフリカの内陸にも入っているにも関わらず、他のポルトガル文献にはグレートジンバブウェがみえない。このことから、グレートジンバブウェはポルトガル人来航以前に没落していたと考えられる。当時のジンバブウェ高原には、グレートジンバブウェ国の後継国とみられる北東部のモノモタパ王国と、南西部のトルワ王国が誕生していた。

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参考文献

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世界遺産グレートジンバブエ遺跡から眺める風景

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グレードジンバブエ遺跡 from 写真AC

*1:「ジンバブウェ」はショナ語で「石の家」を意味し、歴史的には首長の宮廷を指すものとして使われた。グレートジンバブウェは、数ある「石の家」の中でも最大のものであるので、そう命名された。

*2:特筆すべき遺物として、鳥の像を頭に頂き、さまざまなデザインが彫られている長さ1メートル余りの滑石製の柱があげられる。