戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

工 十郎兵衛 たくみ じゅうろうひょうえ

 安芸国安北郡深川(現在の広島市安佐北区深川)の檜物師。毛利元就から「佐東領中檜物師」の頭領に任じられた。

佐東領と毛利元就

 天文十五年(1546)、家督を嫡子隆元に譲った毛利元就は、安芸武田氏の旧領を中心とする「佐東領」を隠居分として直轄支配した。その範囲は、深川上およびそこから馬木の峠を越えた温科、中山、矢賀、また三篠川太田川が合流する東岸の深川下、玖村から岩上の峠を越えて北庄、戸坂辺まで、また西岸は緑井から旧武田氏領の中核部分である金山城麓の佐東と、広域であった。

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 元就は隆元に対し、幸鶴(隆元の嫡子=輝元)の時代になったら、佐東領は隆元の領地となること、その時には、隠居自らが家中を乱す者を処分できる軍事力を保持することが重要であることを説いている。

 そんな佐東領は、三篠川根谷川太田川を河下しされた木材の集散地であり、木材関係の職人も多くいたらしい。後に毛利輝元は、戸坂などに給地を持つ山縣就相・就政に対して、囲舟建造に椋木板が不足しているので、「大鋸引」(製材職人)を用意するよう要請している(『閥閲録』巻92)。佐東衆の福井十郎兵衛尉も、金山城普請に「大鋸引」を動員したことを輝元から褒賞されている(「譜録」福井十郎兵衛信之)。

佐東領中檜物師の頭

 天文二十年(1551)十月、深川の十郎兵衛は毛利元就から「佐東領中檜物師」の「かしら」とされ、「代工」(大工)に任じられた(「深川工家文書」)。元就奉行人の桂元忠と桜井就綱からは、屋敷分として道曾神木入江屋敷畠4段分銭800の在所の支給と、よく奉公すれば扶持の給与がある旨を伝えられている。

 檜物師とは、曲物を作る職人を指す。曲物とは、檜や杉などの薄い材を円形に曲げ、底を取り付けた容器。佐東領中檜物師の「かしら」とは、佐東領内の檜物師といった職人らを統率する職人司であったと考えられる。職人司を任じることで、佐東領内の職人層の編成をすすめていたのかもしれない。

 元就没後の元亀二年(1571)九月、「深川工」は毛利輝元からも従来通り佐東領中檜物師の「かしら」と認められている。後の毛利氏の『八箇国御時代分限帳』には「深川内匠」が、安芸国安北郡に1石8斗5升、佐西郡に2石、合計3石8斗5升を給与されている事がみえる。

参考文献

  • 岸田裕之 「毛利元就直轄領佐東の研究」(『大名領国の経済構造』 岩波書店 2001)

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中世の曲物(複製)と曲物の底板。
広島県立歴史博物館内 草戸千軒展示室「よみがえる草戸千軒」展示物 

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八木城跡から見た太田川三篠川の合流点。