戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

堀立 ほたて

 安芸国中央部を貫流する佐東大田川河口に位置した港町。安芸国内陸と瀬戸内海とを結節する役割を担って栄えた。現在の広島県広島市安佐南区祇園のあたり。

 仁安元年(1166)十一月十七日の『志道原荘倉敷内畠在家検注帳』には「右御倉敷、佐東郡内伊福郷堀立」とあり、既に平安時代末頃には上流の厳島神社領荘園の倉敷地であったことがわかる。

佐東倉敷の繁栄

 鎌倉期の正応元年(1288)六月付けの「六波羅施行状」によると、佐東郡地頭・武田泰継と三入荘地頭・熊谷頼直との間で争論が起きた。佐東倉敷における「河手」(河川水運にたいする流通課税)や「鵜船」の支配、そして佐東倉敷自体の支配権の帰属が問題となっており、佐東倉敷の支配が両者にとって経済的にも非常に重要なものであったことがうかがえる。

 また文保三年(1319)には、堀立に隣接する佐東八日市に住む楫取・藤次が、東寺領荘園・安芸国新勅旨田から京都・東寺への年貢(米・小大豆など)の運送を委託されている。佐東倉敷・堀立の周辺には太田川上流部から年貢など様々な物資が津出しされて集められていたことがうかがえる。そこに物資集散のための市が立ち、水運業者もいて物資の広域輸送も担っていたと思われる。

安芸武田氏

 鎌倉期に安芸守護職を得た武田氏は、後に佐東倉敷を膝下に臨む現在の武田山に佐東金山城を築城して安芸国支配の拠点とした。室町期、惣領家は若狭守護職を得て若狭に移るが、以後も一族を代官として金山城に置いて支配を続けた。

 祇園、山本の両地区には武田氏ゆかりの寺社が数多く存在しており、同氏が堀立の町に大きな影響力をもっていた可能性は高いと思われる。また武田氏との関係は必ずしも明確ではないが、祇園や山本、長束など佐東倉敷周辺には現在でも中世の五輪塔や宝篋印塔が多く残存している。

堀立直正の活躍

 戦国期、堀立出身の商人、堀立直正は毛利氏に属し、廿日市厳島三田尻赤間関などの港町の調略を担い、後に赤間関代官をつとめた。堀立と他の各町衆との間に日常的な経済関係が背景にあったものとみられる。

祇園の宿場町

 また堀立に隣接する祇園にも町場があったことが、『中書家久公卿上京日記』などにみえる。天正三年(1575)三月廿五日、厳島を出発した島津家久一行が、廿日市草津を経て「祇園原の町」の古藤左衛門の所に一宿したことが記されている。

関連人物

参考文献

  • 広島県立歴史博物館 『海の道から中世を見るⅡ 商人たちの瀬戸内海』 1996