戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

あきの五もし あきのごもし

 毛利家臣・内藤元種*1の娘。毛利輝元の養女となり、羽柴秀吉の養子・秀勝に嫁いだ。秀勝の死後、毛利家臣・宍戸元続に再嫁した。

羽柴秀吉の娘

 右田毛利家には、「御もし」(「五もし」)に宛てた羽柴秀吉の朱印状が伝わっている。「御もし」あるいは「五もし」は、娘という意味で使われる。秀吉は、宛名の女性を自分の身近から、どこかに下向させたらしく、その道中や現地での生活を案じていた。女性からも、手紙や沈香、海気(中国の絹布)が贈られており、秀吉は安心した旨を伝えている。

 この女性は、秀吉から「あきの五もし」と呼ばれており、当時の安芸国を本拠とした毛利氏の所にいることがうかがえる*2

宍戸元続の妻

 「司箭伝 附宍戸元続室家之弁」には、毛利家臣・宍戸元続*3の妻についての記述がある。これによれば、彼女は毛利家臣・内藤元種の娘で、毛利輝元の養女となり、「於次丸」に嫁いだという。「於次丸」は織田信長の子で、羽柴秀吉の養子となった羽柴秀勝の幼名を指す。

 天正十三年(1586)、羽柴秀勝は死去。この女性は、毛利家臣・宍戸元続に再嫁したとしている。

毛利元倶妻の母

 「司箭伝 附宍戸元続室家之弁」をふまえると、秀吉書状にみえる「あきの五もし」と宍戸元続の妻は、同一人物の可能性が高い。羽柴秀吉にとっては義理の娘であり、上記の朱印状は、再嫁する娘を気遣うものであった。

 天正十七年(1589)に、宍戸元続との間に娘が生まれる。この娘は後に右田毛利氏の当主・毛利元倶の妻となり、寛永三年(1626)に38歳で没した。秀吉の書状が、右田毛利家に伝わった理由も整合する。

織田信長の娘

 「司箭伝 附宍戸元続室家之弁」には、宍戸元続の妻(あきの五もし)を、織田信長の娘とする宍戸氏系図があったことが記されている。これに対し同書は、誤りと指摘し、正しくは信長の娵(信長の子・秀勝の妻)であるとしている。なお彼女が秀勝に嫁いだのは、織田信長の死後であった。

 彼女が織田信長の娘とされた背景には、関ケ原合戦後、毛利氏と羽柴氏豊臣氏)との関係の変化があるといわれる。羽柴秀吉の義理の娘としての属性が、宍戸氏や毛利氏にとって都合が悪くなってしまい、隠された結果、信長との関係性のみが伝わってしまったとも考えられる。

 「司箭伝 附宍戸元続室家之弁」には、彼女が後に宍戸元続と離縁し、京都で没したという伝承も記載されている。一方で『防長風土注進案』では、毛利元倶の妻の母が、宍戸元続との離縁後に、娘を頼って三丘小松原村の地で亡くなったとする。同地には、彼女の墓が残っている。

参考文献

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向かって右が、三丘小松原村に残る毛利元倶室の実母の墓。左は毛利元政の墓と伝わる。

*1:大内氏重臣内藤興盛の子。兄に隆時、正朝、隆春らがおり、姉は毛利輝元の母。元種とその息女は、毛利輝元と縁戚関係にあった。

*2:羽柴秀吉の養女の一人である前田利家の娘は、備前宇喜多秀家との婚姻後、秀吉から「備前の五もし」と呼称されている

*3:宍戸元秀の嫡子。祖父・隆家の死後、家督を継いだ。