戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

武田 元繁 たけだ もとしげ

 安芸武田氏の当主。佐東金山城主。官途名は刑部少輔。元綱の子。光和の父。当初は若狭武田氏*1安芸国における代官的地位にあった。

大内氏の侵攻

 明応七年(1498)とみられる年の九月二十一日付で武田元信が出した3通の感状から、安芸武田氏が同年に周防大内氏の攻勢にさらされた様子が窺える。

 大内方は三月、伴要害(広島市安佐南区沼田町伴)、次いで広島湾頭の府中を攻撃。五月には厳島神主家麾下の神領衆・羽仁氏の警固衆が仁保島広島市南区黄金山)に攻め寄せた。府中での合戦には、若狭白井氏も来援して防戦にあたっている。武田方は防衛に成功し、大内氏の安芸侵攻を食い止めることができたようである。

温科国親の反乱

 だが安芸の武田領国では動揺が大きくなっていた。同じく明応七年とみられる年の七月と八月、武田元信は小早川弘平に対し、安芸の分郡で「雑説」(不穏な動き)があり、支配がうまくいっていない事を告白。万一の時は「佐東」(佐東金山城主の武田元繁)から知らせるので協力してほしいと訴えている。

 明応八年(1499)には、武田氏被官・温科国親の謀反が発覚。武田氏は幕命を受けた毛利氏や熊谷氏の支援を受けて、これを鎮圧した。

大内氏に属す

 明応九年(1500)三月、かつての明応の政変で将軍職を追われた足利義植が周防山口に下向して大内義興に迎えられた。幕府はこれに対し、西日本の諸将に義植、義興の追討を命令。武田元信も、小早川扶平や毛利弘元に協力を要請している。

 元信には幕命を背景に、安芸分郡統治を立て直す狙いがあった。毛利弘元宛ての書状では、特に「金山」(佐東金山城武田元繁)に対する一味協力のために奔走してもらいたい旨を述べている。

 しかし、経緯は不明ながら、当の武田元繁は惣領家・若狭武田氏から離反した。永正五年(1508)、元繁は大内義興に従って上洛したのである。さらに、これに前後して熊谷氏や仏護寺に所領の宛行、安堵を行っている。それは、かつて武田元信が両者に対して行ったことと同様であった。

大内氏からの離反

 永正十二年(1515)、大内義興は元繁を安芸に帰国させた。当時、安芸では厳島神領衆が東方と西方に分かれて抗争を繰り広げており、元繁にこれを鎮定させるつもりであった。このとき義興は、養女としていた権大納言飛鳥井雅俊の娘を元繁と結婚させている。これは大内氏から離反しようとする兆候をみせた元繁に対する牽制であったともいわれる。

 帰国後、果たして元繁はこの妻と離別。公然と大内氏に背いた。元繁はまず東方の神領衆を支援するため、厳島神領に侵攻。大野河内城(廿日市市高畑)を攻略した。次いで己斐城(広島市西区己斐)を囲んだが、守りが固く、数ヶ月経っても落とすことができなかった。

 その間、大内義興の意を受けた毛利興元や吉川氏が、元繁の背後を突くべく武田方の山県郡有田城に攻め寄せ、五月頃に有田城を陥落させた。このため元繁は己斐城を諦め、山県郡へ軍勢を転じて有田城奪還を図ったが、戦果はあがらなかった。

有田合戦

 永正十三年(1516)年八月、2歳の嫡子・幸松丸を残して毛利興元が病死。出雲尼子氏と通じる宍戸氏や三吉氏らも、毛利氏の背後を脅かした。情勢は武田氏に有利となっていた。

 永正十四年(1517)二月、元繁は吉川領内の宮庄(山県郡北広島長新庄)に侵攻。十月には有田城攻撃に取り掛かり、落城寸前まで追い込んだ。

 しかし十月二十二日、毛利幸松丸の叔父・元就率いる毛利軍が、武田軍の背後を襲ったことにより武田軍は大敗。熊谷元直をはじめとする武田氏有力部将が、多数討ち死にした。元繁自身も、井上左衛門尉に討ち取られた。

 元繁の跡は子の光和が継いだ。しかし当主敗死の衝撃は余りにも大きく、安芸武田氏の勢力衰退は決定的となってしまった。

参考文献

  • 河村昭一 『安芸武田氏(中世武士選書)』 戎光祥出版 2010

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武田元繁討死の地といわれる場所に立つ碑。

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熊岡神社。永正元年(1504)に武田元繁が鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したという。

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己斐城遠景。野坂房顕は自身の覚書で「数ヶ月武田攻ムルトイエドモ、銘城故落チズ」と記している。

*1:若狭武田氏は安芸分郡守護職も持っていた。元繁にとっては惣領家。