戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

温科 国親 ぬくしな くにちか

 安芸国温品の国人。武田氏の被官*1。官途名は兵庫助、後に大蔵少輔。明応八年(1499)、主家に叛いた。

武田氏への反乱

 明応八年(1499)八月六日、室町幕府奉行衆は安芸国人・毛利弘元に奉書を下し、温科国親が武田元信に敵対し、「悪逆」を企てて謀叛した事を伝えた。そして、元信に合力する為、遅滞なく出陣するよう命令している(『毛利毛文書』167)。国親の謀叛はおそらく七月末頃とみられる。

 国親の謀叛は、毛利氏や熊谷氏ら国人衆の支援を得た武田軍によって鎮圧された。この戦いで活躍した熊谷膳直は武田元信から国親の旧領の一部とみられる「馬木村」(現在の広島市東区馬木)を与えられている(『閥閲録』27ー2)。

反乱の背景

  この頃の安芸の武田氏分郡は、明応七年(1498)頃に周防大内氏が侵攻してきた事もあり、不安定な状態にあった。武田元信は小早川弘平に宛てた書状で「分郡之儀、当時雑説事」や「分郡之儀、毎篇正躰無ク、成リ行キ候」と述べ、万一の時は「佐東」(佐東金山城主・武田元繁)から知らせるので協力して欲しいと訴えている(「小早川家証文」418,419)。

 温科国親の謀叛は、大内氏の寝返り工作によるものであったとも考えられる。

秋穂八幡宮神主

 応仁元年(1467)四月、周防秋穂八幡宮の社殿再建が成った。その様子は、同年六月一日付で神主国親が記した「八幡宮御造営記録」によって知る事ができる。この国親こそ、温科国親その人であった。

 八幡宮造営の為の用材は、秋穂二嶋庄内や近隣の「賀河(嘉川)宮山」だけでなく安芸国西部の吉和山からも切り出された。この際、所務代・温科国親*2厳島で船を調達。地御前で受け取られた用材は、前述の船と八幡宮領の水夫たちによって秋穂まで運ばれた。

 上棟の際には大内氏の代官・仁保盛安*3と国親が、それぞれ一疋ずつ馬を牽き進め、工事に携わった大工、鍛治、杣人等に祝儀が配られた。諸方より人々も群集し、社中は大いににぎわったという。

 安芸の吉和山で用材が切り出され、厳島の船で運搬された背景には、所務代を兼任した国親の案内があったとみられる。国親の本拠地である安芸温品は、中世までは広島湾頭に位置していた。もともと佐西郡などの安芸西部との交流が、盛んだった可能性がある。

 安芸国人の温科国親がなぜ秋穂で八幡宮の神主や所務代を務めていたかは不明だが、少なくとも八幡宮造営の際には周防大内氏との折衝があったとみられる。後に武田氏から離反の動きをみせたのも、この大内氏との近い関係性によるものであったのかもしれない。

国親の「本復」

 文亀三年(1503)三月、大内義興安芸国人・阿曾沼弘秀に対し、温科国親の「本復」と、国親の領地返還について伝えている(「萩藩譜録阿曾沼内記秀明」)。弘秀が得ていた国親の旧領を、返還させようとしていたとみられる*4

 永正五年(1508)、安芸武田元繁大内義興に従って上洛している。国親の「本復」が、安芸国の旧領回復を意味するなら、背景には大内氏による安芸国への勢力浸透があったのかもしれない。

参考文献

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温料氏の本拠とみられる永町山城跡。

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八幡宮の社殿。文亀元年(1501)に大内義興によって現在の地に移された。現在の社殿は元文五年(1705)建立のものだが、正面の一部に室町期の蟇股(かえるまた)が残っているという。

*1:国親の「国」は、若狭武田氏当主・武田国信からの偏諱の可能性がある。

*2:国親は神主と所務代を兼任していたとみられる。

*3:大内家臣。後に大内教幸の反乱に加わり、没落した。

*4:阿曾沼弘秀には、代所を与えることを約束している。