戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

野間 彦太郎 のま ひこたろう

 安芸国矢野の国人領主・野間氏の一族か。大内氏に属し、安芸東西条に知行を得ていた。

筑前国での合戦

 明応六年(1497)三月十五日、筑前国御笠郡筑紫村と城山における合戦で、彦太郎の家人衆が活躍。彦太郎は義興から感状を得た(『閥閲録』巻73)。この合戦は少弐政資大内義興との間で行われたもので、周防国安芸国石見国の軍勢を動員して数に勝る大内勢が三月十五日に少弐勢を大破。政資は肥前国に逃れたものの、四月に自害した。

 なお上記の感状は、18世紀に編纂された『閥閲録』巻73天野求馬家の項に収録されている。同項では野間彦太郎が、当時の当主・天野元連の家人であったとしている。

安芸東西条における知行地

 大永三年(1523)八月、安芸国人・平賀氏が作成した「安芸東西条所々知行注文」に、「志多見村 百貫 野間吉浦彦太良(郎か)知行」「上戸村 百貫 同吉浦知行」がみえる(『平賀家文書』)。

 この「野間吉浦彦太郎」は、明応六年三月の合戦で感状を得た野間彦太郎と同一人物または後継者と考えられる。野間彦太郎は大内氏安芸国における所領である東西条において、計200貫の知行を得ていたことがわかる。

大内氏と尼子氏の戦い

 大永三年(1523)の情勢は緊迫していた。同年六月には、大内氏東西条支配の拠点である鏡山城が、毛利氏や平賀氏の合力を得た尼子経久によって陥落。「安芸東西条所々知行注文」は、平賀氏が新たな支配者である尼子氏の為に作成したものだった。

 この間の彦太郎の動向は不明だが、大永三年八月に「吉浦野間刑部大輔」が大内方警固衆の一翼として五日市(現在の広島市佐伯区五日市)を攻撃し、討死している(『棚守房顕覚書』)。彼が彦太郎の同族であれば、彦太郎もまた大内方として戦っていたのかもしれない。

 一方で矢野を本拠とする野間彦四郎は、大内氏と敵対して大永五年(1525)六月に降伏している。吉浦(および西条)と矢野の野間氏は、別の行動をとっていた。

野間氏の滅亡

 天文二十三年(1554)、毛利氏が大内氏に反旗を翻すと、矢野の野間隆実はいったん毛利方についた。しかし天文二十四年(1555)三月に毛利氏と敵対。四月、矢野保木城が陥落し、矢野野間氏は毛利氏に滅ぼされた。同時代の厳島神社の社家・野坂房顕は、隆実を「野間彦太郎」と呼んでいるが(『棚守房顕覚書』)、上述の彦太郎との関係は不明。

 弘治二年(1556)十月、毛利氏奉行人らが小寺元武に対し、「(周防国)玖珂郡多田村二十五貫文」とともに「西条野間方先給勝屋分廿五貫文」を給付している。西条の野間氏が知行していた所領は、毛利氏に没収されたのだろう。あるいは明応六年の感状も、どさくさに紛れて天野氏が入手した文書なのかもしれない。

参考文献

  • 『萩藩閥閲録』第二巻 山口県文書館 1968
  • 広島県史 古代中世資料編5』 広島県 1980
  • 藤田直紀・編 『棚守房顕覚書』 宮島町 1975