戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

オルドバリク Ordu Baliq

 8〜9世紀に栄えたウイグル・カガン朝の城郭都市。モンゴルのオルホン川西岸の広大な平坦地にあるハル・バルガス遺跡に比定されている。周囲には約6キロメートルのメインストリートをもつ市街地も広がっていた。

宮殿の街

  ウイグル・カガン朝の葛勒カガンの墓所であるシネ・オス遺跡(アルハンガイ県)からは、葛勒カガンの紀功碑であるシオ・ネス碑文がみつかっている。同碑文はウイグル・カガン朝の支配層が使った古ウイグル語が突厥文字であらわされており、ウイグル・カガン朝の成立過程についての重要な史料となっている。

  シオ・ネス碑文には、文章の流れからおそらく753年(天平勝宝五年)に、オルホン川のほとりに「国の玉座」すなわち宮殿が造営されたとある。宮殿については、『資治通鑑』に牟羽カガンが宮殿を建てて居したとことが記されている。牟羽カガンの在位は759〜779年であり、その時点までにウイグル・カガン朝に、漢人の目から見て宮殿と認識するような建物があったことがうかがえる。

 この宮殿は、13世紀にイルハン朝で編纂された史書*1にみえる「オルドバリク」にあったと推定されている。「オルド」とは宮殿、「バリク」とは城もしくは都市を指すことから、オルドバリクは「宮殿の街」を意味したとみられる。

ル・バルガス遺跡

 このオルドバリクの廃墟が、アルハンガイ県のオルホン川西岸の広大な平坦地にあるハル・バルガス遺跡*2とされる。

 ハル・バルガス遺跡はまわりを高さ約10メートルの版築もどき工法で築かれた壁に囲まれている。囲壁の長方形プランは長方形で、西北-東南方向を長辺とし、その長さは414メートル、それに直交する短辺は326メートルが計測されている。

 囲壁の外周には濠があり、壁には馬面と角台が付き、西北壁の主門には甕城がみられる。

 馬面とは、囲壁の外周面に一定間隔で設けられた突出部を刺し、角台とは囲壁の四つのコーナーに設けられた張出部のことをいう。いずれも弓矢を携えた兵が陣取って、そこから迫る敵兵を狙い撃った。また甕城は、城門の外側に付設された鉤手状、もしくは半円状の土塁であり、敵がなだれ込むのを食い止める防御の為の施設だった。

 上記の城郭は主郭(西郭)にあたるとみなされているが、その東南側には、現存1メートルほどの低い土塁で囲まれた副郭(東郭)が付設されている。こうした連郭(複郭)の構造は、ウイグル期の城郭建築の特徴とされる。

 副郭は西北-東南方向が300メートル、それと直交する方向が370メートルだった。副郭内部は、一部が小路で碁盤の目のように細分されていたという。それぞれの区画には、官署などの建物群があったことが想定されている。

遺跡の主郭

 ハル・バルガス遺跡の主郭には、主門を入ってすぐに高さ14メートルの塔状の建物があった。調査により,木組みで芯を造り、版築もどき工法で粘土を積み上げて形を整えた、方形プランの建物だったことが分かっている。物見櫓とか仏塔とか、その機能には諸説あるという。

 『新唐書』回鶻伝に、唐朝の太和公主が崇徳カガン(在位821〜824)に降嫁した際、婚礼の儀式が「楼」で行われたとある。塔状の構築物は、この記述にある「楼」であった可能性があるという。

 上記の塔状建物の東南、すなわち主郭の中央には、間口が30メートルもある2棟の大型建物が並んで建っていた。基壇の欄干には龍頭を模った石造飾りがあり、床には礎石(円形の柱座をもつ)が並び、壁は焼成レンガを積み上げて形成され、屋根は蓮華文をあしらった瓦当(瓦の先端にある円形または半円形の文様面)から成る瓦葺きの豪壮な漢地風建築だった。仏教寺院ともカガンの宮殿正殿ともいわれる。

 主郭の東南隅には、高い壁で囲まれた50メートル四方の特別な空間があった。後宮のようなカガンの私的な場だったと考えられている

 レンガ造りの多層建物に囲まれた中庭には、深さ12メートルに達する井戸があった。切り石を六角形に組み合わせた井戸枠は漢地の様式であり、唐朝から来た工人の技術が用いられたことを示唆している。

井戸の中の玉冊

 井戸の中には焼けた瓦礫が詰まっており、この建物が火災を受けたことを示していた。

 この井戸の底からは、白い玉質の石で作られた玉冊が出土している。「冊」とは、古代の書写に用いられた竹簡も模したものであり、とくにネフライトのような軟玉質の石材が用いられたものは「玉冊」と呼ばれる。玉冊には、皇帝の命令や国家祭祀の祝文が刻まれることが多いという。

 井戸から出土した玉冊には、唐朝の皇帝による崇徳カガンの冊立文が刻まれていた。すなわち崇徳カガンの冊立時に白居易が撰文した『冊迴鶻可汗加号文』の一部だった。

 この大切な玉冊はしかし、砕かれて井戸に捨てられていた。その理由は不明だが、ウイグル・カガン朝の滅亡との関連が指摘されている。すなわち『旧唐書』『新唐書』によれば、840年(承和七年)に北方の黠戛斯(キルギス)が10万騎でオルドバリクと思しき「回鶻城」に攻め込み、これを焼き払ったという。

オルドバリクの市街地

 オルドバリク市街地の遺構の範囲は、東北から西南にかけて約11キロメートル、西北から東南にかけて約5キロメートルにおよぶ。その総面積は45平方キロメートルだった。市街地を全体をとりまく囲壁は存在しない。

 ハル・バルガス城郭から西南方向にメインストリートが約6キロメートルものびる。幅員は最大で約60メートルあった*3。メインストリートの両側はは無数の小路が入り、そうした小路が交わって大小の街区が形成されていた。それぞれの街区は土塀によって囲まれていた。大規模の街区は50ヘクタール前後もあった*4。ほとんどの街区は方形に区画されており、長安など漢地の制に倣ったものと考えられている。

 比較的小規模な街区は、商業や手工業の従事者など庶民の生活の場だったとされる。同地区からはソグド商人も珍重したササン朝ペルシアの銀貨が採集されている。またオルドバリク周辺で農耕を目撃したという当時のアラブ人の記録もあり、川や湿地に近い街区には、農民が住んでいたことも想定されている。

 一方、大規模な区画には、宗教施設や高位高官の居宅があったと考えられている。宮殿城郭の西南300メートルのところに、230×270メートルの範囲を土塁で囲んだ方形区画がある。その中に間口が40メートル、奥行き21メートルもある、オルドバリク最大級の建物基壇があった。基壇の傍らにはカラバルガスン碑文と呼ばれる花崗岩製の石碑が、一抱えを超える大きさの破片となって、いくつも散らばっていた。

 この石碑の推定高は4メートルにもなる。漢字漢文、ソグド文字ソグド語、突厥文字ウイグル語の3種の文章が陰刻されていた。保義カガン(位808〜821)の紀功碑として立てられたとされる。内容はソグド人が篤く信仰し、ウイグル・カガン朝でも重きを置かれていたマニ教について多くの部分を割いていた。

ウイグル・カガン朝の滅亡

 『新唐書』回鶻伝によれば、839年(承和六年)、長く続いた旱魃が飢饉をもたらし、弱った体を伝染病が襲い、追い打ちをかけるように大雪が降って多くの羊馬が死んだという。さらに同年、彰信カガンは宰相の掘羅勿(キュレビル)の反乱で自害に追い込まれた。

 翌840年(承和七年)、この動乱に乗じてエニセイ川上流方面にいた黠戛斯(キルギス)が騎兵10万で回鶻城(オルドバリク)に侵攻し、新たに立ったカガンを殺し、宮殿に火をかけた。ここにウイグル・カガン朝は滅亡した。

 ウイグルの遺民たちは北モンゴリアを追われた。彼らの一部は東トルキスタンや河西回廊に逃れ、それぞれ天山ウイグル、甘粛ウイグルと呼ばれるようになる*5

阻卜と契丹

 ウイグル・カガン朝を滅ぼした黠戛斯(キルギス)は、モンゴル高原に留まることなく北帰した。その後、バイカル湖の南にいたモンゴル系民族の一派といわれる九姓タタル(九姓韃靼)という集団が北モンゴリア中央部へと南下した。やがてその集団は漢文史料に阻卜(あるいは韃靼)とあらわれる勢力を形成した。

 一方でモンゴル高原東方、大興安嶺山脈中東部のシラムラン川流域では耶律阿保機を首長とする契丹が急速に台頭。916年(延喜十六年)、阿保機は皇帝となり契丹を建国した。契丹は北モンゴリア東部は勢力拡大を推し進め、阻卜への介入を強めた。

 966年(康保三年)、阻卜は契丹を牽制するため、同じく契丹と敵対していた北宋に遣使。北宋も981年(天元四年)に阻卜に使者を派遣している。

  1004年(寛弘元年)、契丹北宋の間で澶淵の盟が結ばれる。同年、契丹鎮州城(チントルゴイ城址)を拠点とする鎮州建安軍を設置し、モンゴル高原の本格的な経営を図った*6

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 契丹の急激な勢力伸長に対し、阻卜は帰順の意を示しつつも、1005年(寛弘二年)には北宋に遣使。1007年(寛弘四年)にはメルブ(現トルクメニスタン)にいたキリスト教東方教会派の大司教のもとに使者を遣わすなど、諸勢力との関係強化も進めている。

 1012年(長和元年)、阻卜は契丹に叛旗を翻し、ウイグルの故城オルドバリクに籠り、オルホン川を挟んで鎮州城の契丹軍と対峙した。ただ、この阻卜の反乱はまもなく契丹に平定され、その後の阻卜は契丹に服属した。

 1089年(寛治三年)、マルクズ*7という人物が契丹から阻卜のリーダーとして承認される。彼はイェケ・モンゴル・ウルス期の史料に、ケレイト部族のマルクズ・ブイルク・カンとしてあらわれる。後にチンギス・カンモンゴル高原の覇権を競ったトオリル(ワン・カン)は、マルクズの孫にあたる。

参考文献

グーグルマップで確認できるハル・バルガス遺跡(オルド・バリク)

*1: 13世紀、イランのイルハン朝に仕えた歴史家アラー・ウッディーン・ジュヴァイニーが著した『世界征服者の歴史』

*2:ル・バルガスはモンゴル語で"黒い城"を意味する。

*3:唐の長安城のメインストリートの朱雀大街の幅は約150メートル。日本の平城京の幅は約75メートルとされる。

*4:小規模の街区は2ヘクタールほどだった。

*5:天山ウイグルは後に天山ウイグル王国を建て、13世紀初頭にイェケ・モンゴル・ウルスに帰属した。甘粛ウイグルチベット系タングート族の建てた西夏に服したが、西夏が滅ぶとイェケ・モンゴル・ウルスに降った。

*6:『遼史』は鎮州城を「本可敦城」としており、「可敦(ハトゥン)」はウイグル語で后妃を意味することから、かつてウイグル・カガン朝の后妃の居城として造営された城を改修した可能性も考えられている。

*7:マルクズとはマルコに由来する洗礼名とされる。阻卜の支配者層にキリスト教が深く浸透していたことが分かる。