11世紀、契丹(遼)がモンゴル高原に設置した城郭都市。チントルゴイ城址に比定されている。契丹のモンゴル支配の拠点として、また甘粛やトルキスタン方面を結ぶ交通路を確保する役割もあったとされる。もとはウイグルの城郭であった可能性もあるという。
契丹によるモンゴル高原支配の拠点
1004年(寛弘元年)、契丹は鎮州建安軍を設置し、節度州である鎮州と刺史州である防州・維州の辺防三州を築き、モンゴル高原の本格的な経営を図った。『遼史』は鎮州城を「本可敦城」としており、「可敦(ハトゥン)」はウイグル語で后妃を意味することから、かつてウイグルの后妃の居城として造営された城を改修した可能性も考えられている。
現在、鎮州城はチントルゴイ城址に比定されている。チントルゴイ城址は、モンゴル国ブルガン県ダッシンチレン郡西郊16キロメートル、トーラ川と支流ハルバフ川の合流点南35キロメートルに位置。周辺には西からヘルメンデンジ城址、オランヘレム城址、ハルバフ城址などの契丹城郭が約20キロメートル間隔で並ぶ。チントルゴイ城址を含むこれら城郭群は、トーラ川とオルホン川流域を結ぶ交通の要衝に配置されており、相互に連携しながら契丹のモンゴル高原統治の中心を担ったものと考えられている。
なおモンゴルにおける契丹城郭は20基ほど知られている。チントルゴイ城址はその中でも規模が最大であること、「チン」という音の類似等から鎮州城址と考えられている。
チントルゴイ城址の構造
チントルゴイ城址は、その名称の由来ともなったチン丘(トルゴイ)を背後に有する。チン丘は烽火台としても機能したとされる。
城址の南東にはツァガン・ノール湖、東には無名湖がある。この湖沼に向かい旧河道が、城址の西側から南側を取り囲むように確認されている。また旧河道から城内外に引き入れた水路跡が観察されているという。
城址は、南北約1260m、東西約660mの平面長方形を呈する。内部中央付近に東西に延びる内城壁を設け、南北に二分された構造となっている。複郭構造は、上京や祖州城址、饒州城址で認められ、契丹城郭の特徴のひとつとされる。
城壁の現存高は約3m。城壁前面には10〜12mの堀がめぐっており、さらにその外に低い土塁がめぐっている。城壁には南北面で5ヶ所、東西面で9ヶ所の馬面が65〜70mの間隔で付設される。北城、南城ともに東西南の3ヶ所に門を持つ。いずれも甕城と呼ばれるL字状の補助城壁を外に突出させている。
南北城の境界にある北城南門では、前面(南城側)に230m×60mの箱型の堀が付加されている。城内での南北城の出入は、この門のみ可能だったと考えられている。またこの堀と南城の南北中央道路の接合部は、道幅が狭く屈曲を持っており、防御性を高めている。以上のことから、南城から北城への出入は制限されていた可能性が高いと推定されている。
城内は、幅の広い中心となる道路が各門をつなぐように配置されている。地表面の観察では、南北中央道が約24m、東西中央道が約20mの幅をもつ。これらに直交、平行して狭い道路が存在する。
北城内では、大型基壇や区画を持つ建物が多い。基壇上及び周辺では、礎石や瓦片の散布が顕著であり、礎石建ち瓦葺建物が存在していたとみられている。中でも北城北壁に接する120m×180mの区画は、内部に大型の基壇をもつ建物跡をコの字形に配したもので、政庁跡と考えられている。この西隣にも同様の区画がある。また北西隅には建物跡の密集が、南西隅・東南隅にはそれぞれ大型建物を配した区画が確認されている。
南城では、建物跡は南北中央道周辺に顕著にみられるという。道路の両側は高く整地され、この周辺に建物跡が確認されている。また東側には、コの字の土塁内に基壇を南北に配置している施設がある。中央の基壇は高さから塔である可能性もあるとされ、寺院跡とも考えられている。
都市での生産活動
城内で使用する容器類や瓦の生産は、城址の南方約300mにはチントルゴイ窯址群で行われていた。この内、一号窯跡の発掘調査によれば、窯の形態は半地下式の平窯で、長軸約5.2m、幅約2.6m。天井をアーチ状に積む「饅頭窯」の形状をとっているとされる。
ここでは釉薬をかけない素焼きの陶質土器を生産。器種には、壺、鉢、碗、大型の甕等の貯蔵器・食器が主体であるが、三足羽釜、深鉢等の煮沸具もみられるという。主体となるのは壺類で、全体の約4割、鉢が約2割を占める。
城内の居住区から出土した土器の構成は、上記の一号窯跡のそれとほぼ変わらないが、長胴の短頸瓶、器台、硯など、窯址では生産していない器種も確認されている。また城内では碗、皿類が比較的多く出土しているが、窯址ではほとんど生産されておらず、その形状もやや異なるという。
一号窯址と城内の出土土器構成の基本的一致は、一号窯址が日常什器を城内に供給するための生産址であることを示すとされる。一方で、一号窯址では壺類が4割を占めていることに対し、城内出土土器では碗・皿類が比較的多いことについては、窯址ごとに生産する主要器種が異なっていた可能性が指摘されている。
城内では一定量の陶磁器も出土。白磁が主で、黒釉磁、青白磁、青磁も若干確認されている。ほとんどが小型の碗であるという。陶質土器と陶磁器は、器種を相互補完していた可能性があるが、陶質土器に比べると量は圧倒的に少量とされる。城内の生活では、近辺の窯で生産した陶質土器で自給し、遠隔地から運ばれた陶磁器が奢侈品として用いられたと考えられている。
契丹は926年(延長四年)に渤海を滅ぼした後、多くの渤海人を各地に移住させた。『遼史』地理志では、鎮州に「渤海女真漢人配流七百餘戸」とあり、渤海人が鎮州城(チントルゴイ城址)に連れてこられたことがうかがえる。城内出土土器には渤海土器との類似点があることから、渤海工人が遷された可能性が指摘されている。
また出土土器には型押文がみられる。型押文は長短の三角形や方形のものが多く、半孤を重ねたものもあるという。これらは、他の契丹領内の土器では確認されていない型押文とされる。この種の型押文様は、ウイグル土器に認められる型押文様のヴァリエーションの一種と近似していることから、この地域に存在したウイグル土器生産の系譜を引く工人をチントルゴイ城址の土器生産活動に取り込んだ可能性が指摘されている。
西遼の西方進出
契丹はモンゴル支配の前線として西北路招討使を置き、その拠点を鎮州とした。西北路はモンゴル高原を通じて契丹の内地から甘粛やトルキスタン方面を結ぶ交通路を確保する役割を担ったとされる。
1125年(天治二年)、天祚帝耶律阿果が金軍に投降し、契丹(遼)は滅亡した。このとき皇族の一人である耶律大石は西北に逃れ、鎮州で亡命政権を樹立する。この政権は西遼(カラキタイ)と呼ばれる。
1130年(大治五年)、耶律大石は鎮州を拠点に西方遠征を行い、ジュンガリアからイシシ・クル、チュー河方面に進出し、ベラサグンに本拠を移した。さらに周辺の高昌回鶻(天山ウイグル王国)、カラハン朝、ホラズム朝等を勢力下におさめ、中央アジア支配を確立している。
長春真人が見た古城
13世紀前半、金朝治下の華北で隆盛を極めていた道教の一派、全真教の指導者である長春真人(丘長春)は、中央アジア遠征中のチンギスカンに招請され、モンゴル高原から中央アジアへと旅をした。同行した弟子の一人、李志常が記した旅行記『長春真人西遊記』によれば、長春一行はモンゴル高原を横断する途上、契丹時代の古城遺跡を見ている。廃墟とはなっていたが、街路はあたかも最近のもののように見え、町の区画もそれとわかるようであったという。これが鎮州城(チントルゴイ城址)だったと考えられている。
また朝鮮において1402年(応永九年)に作製されたとする跋文をもつ世界地図『混一疆理歴代国都之図』には、モンゴル高原に「古閼氏城」という地名が記されている。「閼氏」とは、匈奴の王号「単于」に対して、その后を意味する語とされる。前述のように『遼志』が鎮州城を「本可敦城」(「可敦」は后妃の意味)と記していることをふまえると、「古閼氏城」とは鎮州城を指している可能性があるという。
参考文献
- 高井康典行 「世界史の中で契丹[遼]史をいかに位置づけるか-いくつかの可能性」(荒川慎太郎・澤本光弘・ 高井康典行・渡辺健哉 編 『 契丹[遼]と10〜12世紀の東部ユーラシア』 勉誠出版 2013)
- 木山克彦, 臼杵勲, 千田嘉博, 正司哲朗, A.エンフトゥル 「チントルゴイ城址とその周辺遺跡」(荒川慎太郎・澤本光弘・ 高井康典行・渡辺健哉 編 『 契丹[遼]と10〜12世紀の東部ユーラシア』 勉誠出版 2013)
- 村岡倫 「モンゴル帝国時代の国境なき交流の道」(村岡倫 編 『最古の世界地図を読む 『混一疆理歴代国都之図』から見る陸と海』 株式会社法藏館 2020)
