朝鮮半島で製作された摺扇。11世紀、日本の摺扇は中国で好評を博したが、高麗に輸出された物も多かった。高麗では日本扇を中国に輸出する一方で、自国で製作した摺扇も国外に輸出。戦国期の日本でも贈答品として用いられた。
高麗使節の贈物
日本の摺扇は10世紀末には北宋への献上品の中に見え(『宋史』巻491)、熙寧年間(1068〜77)の末には開封の市場において鵶青紙を用いた「日本国扇」が販売されていた(『澠水燕談』)。
日本の扇は日本から直接輸入されるほかに、高麗経由での流入もあったらしい。同じく熙寧年間に高麗使節の応接に当たった郭若虚は、彼らのもたらした摺扇について記述している。
その扇は鴉青紙製で、扇面には本国の豪貴を描き、婦人が乗馬する姿や、水辺の景色などを描き、花や水鳥を配し、銀泥で雲や月の模様を描いていた。この種の扇は「倭扇」と呼ばれ、使者を接待する官員でさえ、容易に入手できなかったという(『図画見聞志』巻6「高麗国」)。
四種類の摺扇
1123年(保安四年)、北宋の使者として高麗を訪れた徐兢は、高麗で用いられた摺扇として、「画摺扇」「杉扇」「白摺扇」「松扇」という四種類を挙げている(『宣和奉使高麗図経』巻29)。
このうち「画摺扇」は、扇面に金銀を塗り、風景や人物を描いた。高麗ではこれを製作できず、日本からの輸入品であったとする。「杉扇」は、日本の白杉を用いて製造されたと記している。
「白摺扇」は、竹の扇骨で藤紙を貼り、銅銀の釘を飾ったものであり、所持者の身分が高いほど、扇骨の数が多かったという。11世紀末、華鎮は詩「高麗扇」において、竹の扇骨に楮紙を貼り、自在に開閉できる、としている(『雲渓集』巻9)。楮紙は「楮知白」という別名があり、白い料紙を指す。
1050年(永承五年)、趙槩が北宋の使節として契丹(遼)を訪れた際、同国の興宗は、趙槩が作った詩を「素摺畳扇」(白摺扇)に書写させている(『続資治通鑑長編』巻168)。11世紀、高麗はしばしば契丹に朝貢して方物を献上しており、興宗の白摺扇もその一つだったとみられる。
「松扇」については、1084年(応徳元年)に北宋の使節として高麗を訪れた銭勰が、帰国後に蘇軾、黄庭堅、張耒らに「高麗松扇」を贈っている(蘇軾『東坡集』巻17、他)。この時、孔武仲も銭勰に高麗の松扇を所望しているが、孔武仲はかつて廬山の僧坊において高麗の松扇を見たことがあったという。入宋した高麗僧が廬山僧に贈ったものだった可能性がある。
南宋における高麗扇の需要
12世紀後半、南宋の鄭椿は高麗の松扇について、実際には水柳木(ヤチダモ)を材料としていると述べている。扇面の画題には、女性の乗車図や騎馬図が含まれ、また金銀の砂子(金銀屑)を扇面に散らし、あるいは天の川や星月を描いていた。特に空の青色や海の緑色などの顔料は独特であり、近年の作品は特に精巧であったという(『画継』巻10)。
南宋期、中国では日本扇や高麗扇の輸入だけでは需要に追いつかず、摺扇の国内生産が増加していった。13世紀初頭、南宋では竹骨の両面に絹を貼った摺畳扇が普及。富貴の家では象牙を扇骨とし、金銀で装飾した高級品も用いられていた。こうした意匠は高麗扇をモデルとし、さらに華美にしたものであった(趙彦衛『雲麓漫鈔』巻4)。
明代の朝鮮扇
14世紀末、朝鮮半島では高麗が倒れ、朝鮮王朝が興る。同王朝も中国の明朝への朝貢に際し、各種の扇を進貢した(劉元卿『賢奕編』)。朝鮮を訪れた明朝の使節も、しばしば現地で扇を入手している。また朝鮮の朝貢使節が、北京や遼東などで扇を商品として交易したり、商品として販売することも多かった(『世宗実録』)。
ただし全体として、明代の史料には宋元時代に比べて朝鮮扇に関する記事は少ないという。明朝の文人たちの注意を、あまり引かなかったともいわれる。
日本における高麗扇
一方で、日本にも朝鮮の扇は渡っていた。永正四年(1507)四月十一日、公家・三条西実隆は貰い物の「高麗扇」一本について「秘蔵々々」と日記に記している(『実隆公記』)。高麗扇が珍重されていたことがうかがえる。
天文五年(1536)五月二十六日、京都相国寺の鹿苑院主も、周防国から来訪した人物から「高麗扇一本」と「胡椒一包」を贈られている(『鹿苑日録』)。周防国を支配する大内氏は、朝鮮との通交が知られ、対馬国の宗氏とも友好関係にあった。
天文七年(1538)十月、対馬の宗盛廉が「ゆかけ」(弓懸)を贈られた礼として、大内氏奉行人・杉興重に「高麗扇二本」を進上している(「大永享禄之比御状并書状之跡付」)。高麗扇は対馬の宗氏を通じて周防国に入っていたのかもしれない。
天正十八年(1590)、筑前博多の島井家は羽柴秀吉や徳川家康に朝鮮扇子二本を贈っている(「島井文書」)。朝鮮との貿易の中で入手したものと考えられる。