戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

遣唐扇子 けんとうせんす

 日本の扇は、中国の扇(団扇、方扇)とは違って折り畳める点と、そこに描かれた様々な主題の繊細な絵が好評を博していた。それらは中国では「摺扇」「摺畳扇」「折扇」などと呼ばれた。一方、室町・戦国期の日本では、遣明使節の進貢品の扇を「遣唐扇子」「唐扇子」「唐扇」などと呼称。明朝側に好まれるタイプの扇を使節派遣前に調えていた。

中国王朝への扇輸出

 988年(永延二年)、日本僧奝然は弟子嘉因らを遣わし、宋の皇帝に多くの宝物を献上。その中に、檜扇20枚、蝙蝠扇2枚が含まれていた(『宋史』巻491)。これが中国史料における日本摺扇に関する最初の記載とされる。

 11世紀後半、北宋の詩人・王闢之は、開封相国寺の市場で「日本国扇」が販売されているのを見ている。それは琴漆の柄と鵶青紙を用いた、折り畳み式の摺扇だった。扇面には、淡粉により山水が描かれ、五彩で薄く塗られていた。王闢之は、この扇画の筆勢は精妙であり、中国の絵師も及ばないと評価している(『澠水燕談』)。

 以後も北宋南宋元朝の時代を通じて、日本製の扇は中国で好評を博した。日本から輸出されたものだけでなく、高麗を経由してもたらされることもあったらしい。

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明朝への進貢品

 明朝の時代になると、同王朝の海禁政策によって民間貿易が禁じられたため、おもに朝貢貿易を通じて、日本扇が中国に輸出されるようになった*1

 1371年(洪武四年)から1386(洪武十九年)の十五年間、日本使節は十回にわたり明朝に来航。洪武帝朱元璋)は進貢品の「倭扇」*2を群臣に下賜し、近臣は下賜された倭扇を携えて終日皇帝に随従していたという(張羽『静居集』)。

 日明朝貢貿易は、洪武帝の時代にいったん中断したが、応永八年(1401)から再開。同年、足利義満が派遣した日本使節の進貢品には、扇100本が含まれており、その後も明代を通じて、日本の朝貢使節は扇100本を進貢することが定例となった。

 中国の永楽年間の日本からの輸入品リストには、「両面金扇、両面銀扇、一面金銀扇、抹金扇、貼金彩画扇、貼金銀扇、紙扇」という7種類の扇が挙げられている(高宇泰『敬止録』巻20)。このうち、6種類は金銀扇であった。

遣唐扇子の調達

 室町期の日本において、進貢用扇100本は皆彫骨扇(みなぼりえりのおうぎ)と定められていた。全ての骨を、透かし彫りを施した幅広いものにし、片面に紙を貼った扇のことである。一方、附搭物*3のほうは通常の細骨の扇で、一柄200から300文程度のものであった。

 どちらも、15世紀半ば過ぎごろまでは、将軍御成の際に献上された扇を公方御倉に貯めこみ、それを必要なだけ流用していたとみられている。なお、応仁二年(1468)の遣明船では、足利将軍家の附搭物だけでも、2200本もの扇が明朝に輸出されたという。

 『陰涼軒日録』には、永享七年(1435)、長禄二年(1458)、長禄三年(1459)、寛正五年(1464)に「遣唐扇子」の関連記事がある。寺に対して年始に「遣唐扇子之様」に作った扇を献上せよという通達が出され、各所から通常の細骨の扇20柄に変えて唐扇子10柄を献上することが強いられていた。

 また寛正三年(1562)九月二十一日条には、引物として献上された通常の扇20柄を「御扇、遣唐の為に御倉に置」くとしており、附搭物用の扇も確かにストックされていることが分かる。

  15世紀の進貢用皆彫骨扇にしても、附搭物の細骨扇にしても、その多くはいわゆる「金扇」であった。明の林房良は「日本扇歌」で以下のように記している。

倭夷の入貢品のなかでは、泥金扇が最も佳い。それは、金箔をもって底と作し、その上に彩色を施す

 また『陰涼軒日録』長享二年(1458)正月二十八日条に「貼金扇」を「三百扇」と言い換えている記事がある。このことから、附搭物の「二百文扇」や「三百文扇」の多くも金扇であったと考えられている。

絵柄の指定

 天文十年(1541)秋、遣明船派遣準備を進めていた周防大内氏は、狩野元信に対して屏風とともに遣唐扇100柄も発注。骨数17本の黒彫骨扇で「絵はいずれも花鳥。人形は一向これを禁ず」と指定している。こうした扇絵の画題の規制がいつ頃から始まったものかは、分かっていない。

 ただ『陰涼軒日録』永享八年(1436)十一月二十四日条には、「正月進上の御扇子は日本の画にすべし」と記されている。この記事については、正月に進上されることになっている遣唐扇の絵を「日本の画」にするよう指定している、との解釈もある*4

遣明使節による扇の贈答

 日本の遣明使節が進貢した扇は、明朝の朝廷において用いられ、あるいか臣下に下賜された。また附搭物として舶載された扇は、明朝政府が優先的に買い上げたのち、民間商人との交易が許された。ただし、日本の朝貢貿易は、15世紀中頃から10年1回に制限されており、需要に対する供給は少なかったとみられる。

 このため日本扇は貴重であり、遣明使節たちも明朝の官吏や文人に対する贈答品や、交易の対価として、しばしば日本扇を用いている。例えば享徳二年(1453)の遣明船の従僧であった笑雲瑞訢は、扇一本で『翰墨全書』全巻を入手したという(『臥雲日件録』長禄二年正月八日条)。

 天文八年(1539)度遣明船の副使、天文十六年(1547)度遣明船の正使となった策彦周良も、明朝の文人や官吏との交流で扇の贈答を多数行っている*5。策彦周良の日記である『初渡集』『再渡集』には、「貼銀扇」「隻金扇」「隻面金扇」「片金扇」「雨金扇」「両金扇」「両面金扇」「撒砂扇」「黒骨両金扇」「金扇」「黄麗扇」「撒金黒骨」「泥金扇」「灑金」などの扇の種類がみえ、これらは金銀によって装飾を施した高級品であったとみられる。

 これに対して安価な扇とみられる「麁扇」「粗扇」「俾扇」も用いている。天文八年(1549)六月、策彦は寧波の文人である謝国経と趙氏兄弟に扇や小刀を贈り、さらに彼らの童僕には粗扇を与えている。相手の立場や状況に応じて、使い分けていたことがうかがえる。また同年七月八日、策彦は『読杜愚得』八冊を、粗扇2本と小刀3本と交換。策彦も交易の対価として日本扇を用いていることが分かる。

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参考文献

  • 呂晶淼 「十〜十六世紀の東アジアにおける扇の流通と伝播」(中島楽章・伊藤幸司 編 『寧波と博多』 汲古書院 2013)
  • 泉万里 「屏風・扇」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)

陰涼軒日録 長禄二年正月十九日条(国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:日本扇は琉球の主要な進貢品の一つでもあったという。

*2:16世紀中頃、余永麟は洪武帝の文臣であった桂彦良の子孫家で、洪武帝が桂彦良に下賜した日本扇を見たという。この扇は「先以金箔作底、上施彩色」とあるように、金箔の上に彩色を施した泥金扇であった(余永麟『北窓𤦹語』)。

*3:使節随行商人が私的に舶載する物。

*4:長禄二年(1458)正月十日条には「普広院の旧例のごとく唐扇子の様になすべし」とある。正月に遣唐扇を献上することが「普広院の旧例」ならば、普広院(足利義教)の時代の永享八年の「正月進上の御扇子は日本の画にすべし」の意味は、遣唐扇の絵を「日本の画」にせよと指定していると解釈できる。

*5:策彦周良の明朝渡航の際の日記である『初渡集』『再渡集』には、実に扇の贈答に関する記録が150箇所以上も残されている。