戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

梨子羽 康平 なしわ やすひら

 沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。官途名は刑部少輔、後に備後守か*1。小早川敬平の三男で扶平の弟。譜代被官の真田氏や一族の船木常平らとともに惣領家を支えた。

梨子羽氏の家督

 沼田小早川氏庶子家の梨子羽氏では、永正六年(1509)八月に、梨子羽元春が梨子羽郷地頭公文両職、安直本郷内時弘名、北城新田真良貳分方等の安堵を、幕府から大内義興を通じて認められていた(「小早川家証文」)。これは惣領家を離れて大内義興に属す行為であったとみられる。

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 梨子羽康平は惣領家・小早川敬平の三男であることから、惣領家から養子として送り込まれて、梨子羽氏の家督を継いだと推定される。

惣領家の補佐

 大永六年(1526)七月、乃美弾正忠宛の小早川氏奉行人連署書状に、真田蔵人大夫興康、船木又三郎常平とともに「梨子羽刑部少輔康平」の署名がみえる(「譜録」乃美右衛門国興)。このころ康平は、一族の船木常平(小早川興平の弟)らとともに、幼い惣領家の正平(興平の子)を補佐していたとみられる。

 なお大永六年の康平の年齢は、長兄扶平の没年と享年*2、また三男であったことから、当時30代と推定されている。

「康平没落」

 しかし康平の立場は暗転する。「佛通禅寺住持記」には、天文四年(1535)六月二十六日に「康平没落」と簡潔に記されている。

 その背景は不明だが、「佛通禅寺住持記」には「康平没落」以前にも、大永六年(1526)六月二十四日に真田備中守が殺害され、田坂与蝠入道が私宅で腹を切ったこと、享禄元年(1528)八月二十日に真田周防守が殺害され、その弟や一族が多数牢人となった、などの物騒な事件が続いていたことがみえる。

 また天文八年(1539)には、沼田小早川氏は出雲尼子氏に従属しようとしたため、居城の高山城を周防大内氏の軍勢に占拠される事態にも陥っている。

梨子羽景運

 「没落」後の康平の動向は不明だが、永禄四年(1561)に小早川隆景のもとを訪れた毛利元就・隆元父子を「梨子羽又次郎」が迎えている。この人物は平賀氏から養子に入った梨子羽景運(「梨羽家系図」では景行)に比定されている。

 なお景運には伊藤木工允康重という家臣がおり、その実名から康平の偏諱を受けた可能性が指摘されている。

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参考文献

大日本古文書. 家わけ十一ノ二 沼田小早川家系図国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:「大日本古文書. 家わけ十一ノ二」の沼田小早川家系図でが、梨子羽康平の官途名を「備後守」としている。

*2:「沼田小早川家系図」には、永正五年(1508)正月十四日に二十四歳で没したことが記されている。