筑前博多の商人。官途名は主計頭。父は潤屋永富。子に次郎太郎、養子に神屋長秀(太郎左衛門)、婿に孫八郎がいる。なお、系図によっては神屋寿禎の兄とされるが、甥である可能性も指摘されている。
博多古小路の商人
伊勢御師の記録である「中国・九州御祓賦帳」の享禄五年(1532)分に、「はかたこせうじかすゑ」(博多古小路主計)が見え、彼が神屋主計(運安)その人である可能性が指摘されている。この場合、当時の神屋運安の屋敷は博多の古小路(現福岡市博多区店屋町の一部)に存在したことになる。
実名の「運安」は、博多聖福寺の湖心碩鼎の語録「頣賢録」内の「嘉翁惟靖之記」に「総船頭神屋主計運安・其子長秀、伴乎予至北京」とあることから分かる。時期的にみて、「運」は筑前守護代・杉興運の偏諱である可能性があるという。そうであれば、運安と大内氏の筑前守護代との密接な関係が想定される。
天文八年度遣明使節
天文八年(1539)三月五日、博多から遣明船が出発した。正使は上述の湖心碩鼎、副使は策彦周良がつとめた。神屋運安は一号船総船頭に任じられており、養子の太郎左衛門や一族の神屋彦左衛門、三正宗統(神屋寿禎の子)らも使節に加わっていることが確認される。
遣明使節一行は三月末に五島の奈留浦に到着し、四月十九日に外洋に出た。その後、無事中国沿岸部に至り、五月二十五日に目的地である寧波府に入城した。しかし、日本の遣明使節は前回の1523年(大永三年)に寧波の町を焼き払う暴挙に及んでおり*1、明朝側の警戒は極めて強かったらしい。一行の宿泊施設は船着場近くの「嘉賓堂」とされ、当初は自由に出歩くこともできなかったという。
明朝の首都北京への上京は八月十六日になってようやく許可され、かつ北京に上ることができる人数も50名に限定された。上京組は十月七日、寧波居残り組(「留守衆」)に見送られて、寧波府を出発。1540年(天文九年)三月二日、北京に到着した。この時、神屋運安は養子の長秀(太郎左衛門)とともに正使・湖心碩鼎に同行して北京に赴いている(「頣賢録」)。
2ヶ月の滞在ののち、五月九日に遣明使節は北京を離れ、九月十二日に寧波に到着した。同年十月十一日、寧波の湖心碩鼎の館で、運安の亡父潤屋永富の三十三回忌追善の仏事が行われている(「初渡集」同日条)。ここから運安の実父永富が永正五年(1508)に没していたことが分かる。
1541年(天文十年)五月二十日、一行はついに寧波を出発し、日本への帰路についた。中国滞在は約2年にも及んだことになる。六月二十日、舟山群島のうちの烏沙門から出航し、同月二十六日に五島日島に到着。七月三日、遣明船が肥前国斑鳩に差し掛かると、博多から神屋寿禎が出迎えに参上している。そして七月十一日、遣明船は長門国赤間関に帰着した。
伊勢神宮御師の記録にみる神屋一族
上述の「中国・九州御祓賦帳」には、運安以外にもの多くの神屋一族の名が見え、彼らの伊勢信仰をうかがうことができる。運安をはじめとした彼らの足跡は、永禄・元亀・天正年間の「賦帳」にも記録されている。
永禄七年(1564)の「賦帳」では、運安は「はかた神屋主計」として見え、彼以外にも神屋四郎、神屋彦左衛門尉、神屋彦八郎、神屋与四郎らの神屋一族の名が挙げられている。元亀元年(1570)には、神屋主計(運安)含めて6名の神屋一族の名が見え、その隆盛を知ることができる。
しかし天正十四年(1586)の記録では、神屋一族は神屋宗滴入道と神屋太郎左衛門の2名のみとなる。戦国末期の戦乱によって神屋氏も打撃を受けた結果とも言われる。なお、神屋主計(運安)の名は元亀元年まで確認でき、天正十四年には運安養子の神屋太郎左衛門(長秀)*2がみえる。