戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

徳陽 とくよう

 弘治三年(1557)八月、豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。倭寇の罪を謝し、朝貢の許可を求めたが、明朝政府に拒絶された。そのまま中国に留まり、翌年二月、明朝官軍の攻撃を受けていた別の大友氏使節救援に奔走した。

明朝の倭寇対策と大友氏

 1556年(弘治二年)九月、浙江総督・胡宗憲は蒋洲と陳可願を日本に派遣。両名は五島に居た倭寇の首領・王直と毛海峰に接触した。

 その後、陳可願は報告のため先に明朝に戻り、蒋州が日本各地に倭寇禁制を諭すこととなった。蒋州は松浦、博多を経て豊後国に赴き、ここを拠点に使者を周防山口に派遣し、禁令を宣諭した。これを受けた「山口都督源義長」(大内義長)は、倭寇被虜の中国人を本国に送還するとともに、日本国王の印を用いて朝貢することとなった。

 そして「豊後太守源義鎮」(大友義鎮)もまた、徳陽を使者として派遣する準備に取り掛かった。1556年(弘治二年)十一月、蒋州は対馬宗氏に宛ての咨文で、自身が豊後で大友義鎮と会合し、日本各地の「賊徒」へ禁制を伝える回文を得たこと、徳陽を首座とする大友氏の使節船が上表文と貢物を携えて豊後から明朝へ発つことを伝えている。

大友氏と大内氏の遣明使節

 1557年(弘治三年)八月、徳陽を首座とする大友氏の使節は、本国に帰還する蒋州を伴い、明朝に至る。

 この時、周防大内氏の使節も同時に入明している。大内氏は天文年間に日本国王名義で遣明使節を派遣した実績があり、大友氏は大内氏使節に同行する形で遣使したとみられている。当時の大内氏当主・大内義長は大友義鎮の実弟でもあった。

 大友氏は上表文で倭寇の罪を謝し、併せて勘合の下賜を請願して朝貢の資格を得ることを試みた。しかし大友義鎮および大内義長の遣明使節は、朝貢を許されなかった。『明世宗実録』嘉靖三十六年(1557)八月甲辰条は下記のように記している。

豊後雖有進貢使物、而実無印信勘合、山口雖有金印回文、而又非国王名称

 大友氏は勘合の不備で拒絶された。大内氏は勘合をクリアしたものの、「国王名称」を名乗っていなかったことにより明朝に拒絶されてしまった。両氏は、かつて大内義隆らが行っていた勘合貿易の継承に失敗したことになる。

 『日本一鑑』窮河話海巻六によれば、徳陽らの船は浙江沖の舟山島西北部の馬墓港に入港。その後、島中央部の定海へ移動して道隆観に住している。

 道隆観とは、定海南部にある観山の麓に建つ道教の道観(寺院)であり、その創建は北宋の宣和二年(1120)という(『定海縣志』)。朝貢許可を得られなかった徳陽は、この道教寺院にしばらく滞在することとなった。

 なおこの時、定海の七塔寺には、1556年(弘治二年)に同じく大友義鎮の使僧として明朝に渡航していた清授が住していた。

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明朝官軍との交渉

 1557年(弘治三年)十月初め、新たな大友氏使節が、倭寇首領・王直らを伴って舟山島西部の岑港に上陸した。これは、浙江総督・胡宗憲が、王直の罪を許して日本との貿易を許可することを表明したことを受けてのものだった。

 しかし同年十一月、王直は捕縛され、毛海峰ら王直残党と大友氏使節一行は、明朝官軍の攻撃を受けることとなった。翌1558年(永禄元年)二月、大友氏使節を率いていた善妙は、ついに自らの船を棄て、岑港に立て篭もる。そして、既に前年から舟山島定海の道隆観に住していた徳陽に救助を求めた(『日本一鑑』)。

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 これを受けた徳陽は、しかし善妙の要請に応じて自らも岑港に入巣することを得策とは考えず、まずは、通事(通訳)の呉四郎と仲間の日本人を使者として通判の呉成器のもとに派遣し、道隆観にかわる安全な館の提供を求めた。

 さらに、館替えを拒絶されると、今度は明朝官軍の参将・張四維のもとに呉四郎を派遣して、事態の打開を図ろうとしたという(『日本一鑑』)。

 なお徳陽の使者となった通事呉四郎は、広東省潮州を流れる韓江の河口に近い現在の潮安県塘鎮の出身で、かつての寧波の乱の中心人物となった宋素卿(朱縞)の流れをくむ人物であったとされる(『日本一鑑』)。

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 彼が通判呉成器や参将張四維のもとに遣わされた背景には、元来そうした明朝政府側の人物と繋がりのある立場にあった可能性が指摘されている。そして徳陽は、こうした経歴を持つ人物と関わり、そして通事として雇い込みながら、大友氏の朝貢実現の糸口を探っていたと考えられている。

 しかし通判や参将に対する交渉は、最終的には不調に終わった。徳陽は当初の要請通り、自らの貨財を焼き捨てて岑港に籠る善妙に合流することになった。その後、大友氏使節舟山島北面の柯梅に移って船を新造し、明朝水軍の追跡を振り切って南洋へと逃れていった。

参考文献

『明世宗実録』嘉靖三十六年八月甲辰条
皇明実録463 (国立公文書館デジタルアーカイブ