戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

清授 せいじゅ

 弘治二年(1556)、豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。そのまま舟山島定海に滞在していたが、後に来航した大友氏使節が明朝官軍の攻撃を受ける事件が起こり、内陸の四川省茂州の寺院へと流された。

鄭舜功の来日と豊後大友氏

 1555年(弘治元年)、明朝の浙江総督・楊宜は、中国沿岸で密貿易を行う倭寇の情勢を探るために鄭舜功を日本に派遣。鄭舜功は同年四月に広州を出発し、福建から琉球を経て日本に渡り、九州東岸を北上して豊後に上陸した。彼は豊後に滞在しつつ、幕府に倭寇禁圧を依頼する使者を派遣し、1556年(弘治二年)に帰国する。

 鄭舜功の帰国にあわせ、大友義鎮は明朝の倭寇禁圧要請への返書を送ることとした。この時、清授が使僧となり、鄭舜功に随行して寧波に至った。『明世宗実録』嘉靖三十六年(1557)八月甲辰条には、下記のようにある。

豊後島遣僧清授、附舟前来、謝罪言、前後侵犯皆中国姦商潜引小島夷衆、義鎮等初不知也

 大友義鎮は倭寇の罪を謝し、「近年中国沿岸で海禁を破って密貿易しているのは、中国の姦商が日本人を呼び寄せて行っている事だということを、私は知らなかった」と弁解を述べている。

大友氏の対明外交の終焉

 鄭舜功とともに寧波に入港した清授は、その後、浙江沖の舟山島定海にあった七塔寺に滞在していた(『明世宗実録』嘉靖三十八年四月乙卯条)。しかし1557年(弘治三年)十月、舟山島岑港に入港した大友氏使節倭寇首領・王直の一味として扱われ、明朝官軍の攻撃を受ける。

 使節を率いていた善妙は岑港に孤立し、舟山島の道隆観に滞在していた徳陽は、明朝側と交渉を試みるも失敗に終わる。結局、善妙らは船を新造して舟山島を脱出し、明朝水軍の追跡を振り切って南洋に逃れた。

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 この事件は、清授の運命を暗転させた。1559年(永禄二年)、清授は浙江総督・胡宗憲によって中国内陸の四川省茂州の治平寺に流されてしまう(『日本一鑑』窮河話海巻七)。

 鄭舜功が著した『日本一鑑』窮河話海巻四には、茂州で清授が詠んだ詩が収められている。

島道連雲路八千、我今遠謫実堪憐、四年覊繁身憔悴、一点誠心不愧天

 自らの身の潔白を主張し、はるか茂州から祖国日本を想う気持ちが表現されている。

参考文献

『明世宗実録』嘉靖三十八年四月乙卯条
皇明実録466 (国立公文書館デジタルアーカイブ