戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

陳 李長 ちん りちょう

 中国明朝出身の渡来人。明朝では要職に就いていたが、讒言に遭って出奔し、家族とともに日本の肥前国渡航。弟や息子たちは九州や周防各地に分住していった。子の一人である陳覚明は、豊後府内に移住して仏像の制作を担う仏師として活動。覚明の孫の元明は、仏師として天正末年の京都方広寺大仏造立にも関わっている。

日本への渡航

 陳李長の曾孫である陳元明の末裔に、「陳氏系図」が伝わっている。そこから陳李長の来日の経緯と陳氏一族の日本への定着過程をうかがうことができる。

 なお陳氏の系図は李長の4代前の陳安頂から記述が具体的になり、安頂以降については比較的信憑性が高いと考えられている。この陳安頂は、元朝末期の1366年(貞治五年)に生まれ、「宦禄一千石」で通訓大夫、正議大夫、銀青光禄大夫などの要職をつとめ、1438年(永享十年)に73歳で没したという。

 安頂から3代の後、陳李長は1478年(文明十年)に生まれた。通訓大夫、戸部尚書などの要職をつとめていたが、讒言に遭った為、1491年(明応元年)に揚州永翟郡に遷された。1493年(明応二年)、さらに「讒奏」が続いたため、宝冠、宝剣、宸筆墨蹟、本尊の観世音菩薩像などの「代々相伝宝器」を携えて一族130余人と共に揚州を出奔。泰州南滄津で乗船し、数年間の放浪の後、永正三年(1506)三月に、日本の肥前国彼杵郡森崎に着岸した。

 李長はここで領主・納富越後守忠重の保護を得て、その推薦によって肥前佐嘉の龍造寺隠岐守康家に奉公し、「陳兵部重基」と称した。彼杵郡綾之井に住み、大永五年(1525)に48歳で没した。

陳一族の分住

 陳李長は、生前に伝来家宝を5人の息子に分け、系図の写しを授けた。そして彼の子孫たちは、思い思いに諸国に分散していったとされる。

 息子のうち、陳休は肥前の白石に、陳雲は当初は肥前川久保(後に肥後松橋)に、陳覚明は豊後府内にそれぞれ居住した。また弟にあたる陳慶は薩摩伊集院に、了圓は出家、陳賀は周防永田に住している。日本に渡来した陳李長一族が九州や周防の各地に分住していったことがうかがえる。

 上記の李長の息子の一人、覚明は豊後府内において仏像の制作を担う仏師として活動していたと推測されている。覚明の跡は子の義明が継いだ。義明の母は「大岡三平則久娘」とされ、妻は「福永二郎兵衛照近女」となっている。義明には清純、清常の兄弟がおり、各々、弥二郎、与三郎を称した。

 義明の子(李長の曾孫)の陳元明は、天正十四年(1586)、府内が薩摩島津氏の侵攻で焼けると、豊後臼杵唐人町へ移った。その後、天正末年に京都の方広寺大仏造立事業に漆喰職人として関わっている。

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参考文献

稲佐山展望台から見た長崎の街並み from 写真AC