戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

陳 元明 ちん げんめい

 豊後国の漆喰塗り職人。父は陳義明。曽祖父が中国明朝からの渡来した人物であり、祖父の代で豊後国府内に定住している。後に兵火に遭って臼杵に移住。後に京都方広寺の大仏造立の為に上洛し、豊臣秀吉から褒賞を得た。

陳氏の系譜

  「陳氏系図」によれば、陳元明の曽祖父・陳李長は、中国明朝の官人であったが讒言に遭って放浪し、永正三年(1506)に肥前に渡来したという。永正十二年(1515)、李長の子の一人である陳覚明(元明の祖父)は豊後府内に移住し、「智元仏師」と称した。仏像の制作を担う仏師として活動していたと考えられている。

kuregure.hatenablog.com

 覚明の子(元明の父)の陳義明は、生年が永正十三年(1516)とされており、覚明の豊後府内移住の翌年であることから、府内で生まれたとみられる。母は「大岡三平則久娘」、妻は「福永二郎兵衛照近女」となっており、渡来系の陳氏が日本社会の中に血縁的に取り込まれていく様子がうかがえる。

 また義明には清純、清常という二人の兄弟がおり、それぞれ弥二郎、与三郎を称した。清純の娘は大友氏の家臣・小佐井四郎兵衛に嫁している。

臼杵唐人町への移住

 陳元明は、天文五年(1536)に府内で生まれた。妻は大友氏家臣である「吉岡太七郎盛国」の娘となっている。

 天正十四年(1586)、豊後府内が薩摩島津氏の侵攻を受けて陥落し兵火に遭った為、元明らは臼杵唐人町に住居を移すこととなった。同年、元明の父の義明が71歳で没している。

 なお、陳氏系図の奥付によると、天正十四年に島津軍が府内に放火した際に、陳元明が所持していた系図は焼失してしまった。このため、元明は同族で肥後国河尻に住んでいた「陳玄蕃允重昌」(陳覚明の兄弟の陳雲の子)を訪ね、同十六年(1588)に重昌から系図を授与されている。

方広寺大仏造立への関わり 

 天正十六年(1588)、豊臣秀吉が京都において方広寺大仏の造立を開始。秀吉は優れた漆喰塗り職人を幅広く求めていたらしく、薩摩島津氏に対して「しつくい(漆喰)ぬり候者、唐人・日本仁共、当国二在之由候間、早々申付、可差上候」と、島津氏領内に居住する漆喰塗りの中国人および日本人職人の招集を図っている(「島津家文書」)*1

 九月、元明大友義統の言上により、秀吉が求める「木像仕立功者之仏師」の一人として上京した。特に元明自身は「大仏木像仕立漆油続立」の技術で奉仕したとあり、高度な大仏漆喰塗り職人としての活動したことがうかがえる(「陳文書」)。

 その後、臼杵にいったん戻るが、天正十七年(1589)に再度上洛。その功労により、秀吉から褒美として「国役」の免除と居屋敷の扶助を伝える朱印状を授かった。大友義統も秀吉の朱印状を受け、「国役免許・居屋敷八間半扶助」を行うと元明に伝えている。

 文禄二年(1593)、大友義統は改易されるが、同年九月、大友氏改易後の豊後で検地を行った山口宗永から、改めて「国役」と「当屋敷御年貢四斗八舛」の免除を認められた(「陳文書」)。

豊後佐伯への移住と晩年

 文禄二年(1593)段階の「豊後国海辺郡臼杵庄御検地帳」によると、臼杵九町のなかの唐人町の名請人の中に、「大仏しっくい御免」の肩書きがついた元明の名が4軒記載されている。

 この唐人町の中には元明のほかにも、徳鳳、九右衛門、平湖の3名が「大仏しっくい御免」と肩書きが付されて記されている。彼らも元明とともに方広寺大仏漆喰塗りを行った技術者と考えられている。

 ただ、元明は59歳となった文禄三年(1594)に豊後佐伯の大坂本に移り、慶長十七年(1612)に77歳で没した。

 元明には三男一女があり、そのうちの元章と一女が佐伯大坂本に居住。臼杵では元房がその名跡を後世に残す為に二世元明を名乗り、唐人町に居住して家督を相続したという。

参考文献

  • 鹿毛敏夫 「中世「唐人」の存在形態」(『アジアン戦国大名大友氏の研究』 吉川弘文館 2011)
  • 鹿毛敏夫 「戦国期豪商の存在形態と大友氏」 (『戦国大名の外交と都市・流通―豊後大友氏と東アジア世界―』 思文閣出版 2006 )

方広寺の大仏殿跡 from 写真AC

*1:この時動員された中国人技術者としては、薩摩島津氏のもとの陳哥と茜六、平戸松浦氏のもとの古道も確認できる。