戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

唐衣裳 とういしょう

 唐人の衣装。天文年間に大友義鑑が将軍足利義晴への贈答品としている。また日明貿易に深く関わった楠葉西忍も、中国から輸入すべき品目の一つに印金を施した「道士ノ古衣」を挙げている。

大友義鑑の特別贈答品

 天文十二年(1543)、豊後国大友義鑑は、かねてからの幕府中枢部への働きかけにより、肥後国守護職を獲得。同年十二月、その祝儀として、将軍足利義晴に、目録とともに太刀、馬、弓、矢、腹巻、腰巻、黄金を贈った(「大友家文書録」)。

 この時、義鑑からは、目録の品とは別に、「唐衣裳」二枚と、「同帯」一筋も進上されている。翌年八月、将軍義晴は義鑑に対し、目録の品と「唐人之衣裳」それぞれについて答礼を行っているが、「唐人之衣裳」については「尤喜悦候」と喜びを伝えている(「大友家文書録」)。

 大友義鑑が、通常の贈答品とは分けて、唐人の衣装と帯を特別贈与した背景には、「唐物」などと呼称される希少な舶来珍品を入手することが可能な特質性を、中央政権にアピールする意図があったともいわれる。この時以外も、大友氏は将軍家や幕府中枢部に対し、中国産の蝋燭や湯瓶、「唐錦」や「唐沈金」、「硯箱唐」などを贈っている事例が散見される。

豊後府内の「大風流」

 大友氏の本拠地である豊後府内には、唐人町を中心とした渡来中国人コミュニティが形成されていた。この唐人町に西面して時宗寺院・称名寺の伽藍があり、唐人町の渡来中国人の中には、称名寺に帰依して梵鐘を寄進する者もいた。

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 16世紀、府内の称名寺門前では、毎年七月十二日と二十六日に「大風流」が行われていた(『当家年中作法日記』)。鳥兜をかぶり、傍続を羽織って太鼓を囃す人々や、扇獅子舞を舞う人々の様子、また金・銀箔や「唐土、天竺、南蛮、高麗の綾羅錦繍を似かさりたて」た舶来衣装を装っていた人々もいたと記録されている。

 豪華な中国服などが使用されており、これらは府内に住んでいた中国人たちが提供したり、自ら着飾って参列したものも含まれていたといわれている。

「道士ノ古衣」

 文明十五年(1483)正月二十三日、奈良興福寺の大乗院主・尋尊を楠葉西忍が訪ねている(「大乗院寺社雑事記」)。西忍は、永享四年(1432)と享徳二年(1453)の二度、遣明船で中国明朝に渡航興福寺塔頭である大乗院と結んで、その被官商人として活動したことがあった。

 尋尊への述懐の中で、西忍は明朝から日本に輸入すべき物として、以下のように述べている。

生糸第一用ニ立物也、北絹、段子、金蘿、シャ香、道士ノ古衣 色々ノイン金也、唐土ニテハ指タル物ニテハ無、此方ニテ徳アリ、皆破物也、タタミ入タル中ハ見事也、五寸三寸モ大切、女房ノ古衣裳モ同事也

 生糸や絹織物、金蘿(金糸を織り込んだ織物)、麝香に続いて、「道士ノ古衣」や「女房ノ古衣裳」を挙げ、印金(印金箔を縫い付けた装飾)が施されており、中国では大したことはないが、日本で高く売れたとする。「道士ノ古衣」とは、道教の道士が儀式の際に身に着ける絳衣と呼ばれる四角い形状の衣装を指すとみられる。

 西忍の言う道士の古衣は、日本に遺されている。山形県鶴岡市黒川で500年の伝統を受け継ぐ黒川能に伝来する「光狩衣(ひかりかりぎぬ)」であり、日本で狩衣の形に仕立て替えられたが、もとは道士の絳衣であったという。

 雲上の天宮を中心に日月星辰、瑞雲、飛鶴、八卦など中国独自の世界観を図様化したもので、「光狩衣」と呼ばれるように光り輝く文様を印金であらわしている。

参考文献

  • 鹿毛敏夫 「中世「唐人」の存在形態」(『アジアン戦国大名大友氏の研究』 吉川弘文館 2011)
  • 河上繁樹 「各論7 絹織物」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)
  • シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア(訳 河内春人) 『モノが語る 日本対外交易史 七ー十六世紀』 藤原書店 2011

大乗院寺社雑事記 第7巻 尋尊大僧正記 88-105 文明十五年正月二十四日条
国立国会図書館デジタルコレクション