戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

佐賀関 さがのせき

 佐賀関半島先端部のくびれ部分に位置する港町。伊予国佐田岬と速吸瀬戸を挟んで対峙し、豊後水道の航路の要衝として栄えた。

大友氏の直轄港

 大友氏は貞治三年(1364)の段階で佐賀関を直轄領としており、以後も代々受け継いでいる。近世の『武家万代記』では、天文二十年(1551)以降に、大友氏が富来や靏崎とともに佐賀関に海関を設けたとしている。名の通りの「関」でもあったとみられる。

 弘治元年(1555)から二年間日本に滞在した鄭舜功は、著書『日本一鑑』の中で豊後の明船寄港地として蒲江や臼杵府内とともに、佐賀関を挙げている。佐賀関が明国と貿易を行う大友氏の海外貿易拠点でもあったことがうかがえる。

大友氏の政策

 戦国期の佐賀関の状況、および大友氏の佐賀関への政策は、天正十六年(1588)六月に大友義統が若林越後入道に宛てて発給した計11か条の袖判条々から推測できる。

 第1条は「関両浦」(佐賀関は上浦と下浦から構成されている)の都市計画についてであり、第2条では「計屋」を両浦に三軒ずつ設置することを命じている。「計屋」は交易の拠点で銀の秤量を担った商人である。第二条付則に「府内・臼杵可為同前」とあることから、府内、臼杵、佐賀関という領国経済の中心三都市で衡量制の統一が図られたものとみられている。

問丸たちの活躍

 第八条では「旅船」が佐賀関に入港した際には、古くから営業している船籍国の問丸のもとで法を遵守した売買をすることを規定している。佐賀関は多くの商船が来航し、問丸たちが活躍する海運の一大拠点だったことがうかがえる。

関連交易品

参考文献

  • 鹿毛敏夫 「中世の船と港町・流通」 (『戦国大名の外交と都市・流通―豊後大友氏と東アジア世界―』 思文閣出版 2006 )