戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

日振浦 ひぶりうら

 南予と豊後を隔てる豊後水道に浮かぶ日振島の港町。古代から海上交通の要所となった。

藤原純友の拠点

 『日本紀略』承平六年(936)六月条には、「南海の賊徒の首藤原純友、党を結びて伊予国日振嶋に屯聚し、千余艘を設け、官物・私財を抄劫す。」とある。千余艘もの船団を擁した純友勢は、この日振浦を拠点に伊予、讃岐、土佐、後には長躯して大宰府までも襲撃して猛威を奮った。

豊後・南予を結ぶ戦略拠点

 日振島は、豊予を結ぶ海上交通の拠点であったとみられる。16世紀中ごろ、豊後の大友氏は土佐一条氏を支援するため、宇和郡など南予地域に侵攻した。この際、日振浦がまず占領され、同氏の前線基地となったとされる。

 確かな史料では、天正八年(1580)八月、大友義統が若林中務少輔に対する感状で、去年の功績として「火振嶋」を「分捕」ったことを「粉骨」の働きだったと褒めている。豊後・南予海域の制海権において、日振島は重要な戦略拠点だった。

 また天正14年(1586)十二月、豊後での戸次川合戦に大敗した長宗我部元親も、命からがら日振浦に撤退し、土佐に帰国している。

日振浦での交易

 戦国期、日振島を支配していたのが、国人・法華津氏だった。天正四年(1576)、法華津範延は日振衆中に宛てて掟書を出している。この中で「出船入船賣買ノ物」(出入り船舶の商売物)については島中で相談することや、漂流物は発見しだい法花津浦まで報告することなどが定めている。

 海上交通の要所にある日振浦では、出入りする交易船との商いも盛んであったことがうかがえる。

参考文献

  • 石野弥栄 「伊予国宇和郡における戦国期領主の存在形態」(『瀬戸内海地域紙研究 8』) 2000