豊後臼杵の住人。豪商仲屋家の一門であったとみられる。天正元年(1573)、とある事案の交渉の為、大友氏の使者として薩摩に赴いた。
南蛮派遣船返還問題
天正元年(1573)、大友義鎮が「南蛮国」(カンボジア*1)に派遣していた船が、復路で薩摩・阿久根に寄港した際に「大風」によって破損した(「島津家文書」)。
大友家臣・臼杵鑑速は、島津家臣・伊集院忠棟のもとへ使節を派遣して船の安否を尋ねたが、返事は無かった。このため八月二十五日、大友氏奉行人は連署でもって、改めて島津氏に船と積み荷の返還を求めた。
大友氏の交渉担当者
大友氏から島津氏への使者となったのが、仲掃部助だった。その名から「仲」屋号の掃部助、すなわち豊後の豪商・仲屋家の人物と推定される。
九月、島津氏奉行人から回答が示された。すなわち、大友・島津両家は盟約関係にあるので、船と積み荷の銀子・鹿皮・南蛮国からの進物種々については、目録に書き上げられている通りに進上することを約束するというものだった(「島津家文書」)。
しかし上記の約束は、同年十二月になっても実行されていなかったらしい。十二月六日、日向北部の国人領主・土持親成は伊集院忠棟に対し、日向伊東氏を「退治」する為にも、南蛮派遣船問題で大友氏と島津氏の関係が「御等閑」(疎遠)になるのは、好ましくないと主張している(『鹿児島県史料』)。
臼杵の住人
島津氏への使者となった仲掃部助は、豊後臼杵の住人であった。臼杵の大橋寺所蔵の『宝岸寺霊簿』*2には、天正十五年(1587)七月二十日に没した「仲掃部助」の名前がある。
臼杵の唐人町懸ノ町には、仲屋宗越の広大な屋敷があったことが知られる(「豊後国海辺郡臼杵庄御検地帳」)。